必要なものは揃っている。

地球上の全ての生命が眠りにつく午前3時、大学の友人らと共にレンタカーを借りて、神戸市北区の山奥にある廃墟へお参りをした。普段の日常生活に何かしらのマンネリズムを覚えてしまうと、「あれ?なんで俺は生きてるんだっけ?」的なゲシュタルト崩壊を経てある種の自暴自棄に陥ってしまう私は、何かこう、自分の中の男の子的な部分を爆発させたい衝動に駆られる。その結果、少々デンジャラスなことであっても、多少スリリングなことであっても「いっちょ、やってみようぜ!」的な感じで突撃をすることができる。

 

 このような心の動きは、おそらく私だけではないだろうと思う。とりわけ男には、このような傾向が強く見られるのではないだろうか。自暴自棄と言うとマイナスのイメージを抱きがちであるが、何かしらの悲愴感を漂わせた自暴自棄ではなく、何かこう、消えかけていた命の灯に油をぶっかけるような、どちらかと言うとプラスの意味での自暴自棄。平和ボケをした自分に鞭を打ち、自分を楽しませる方向に舵を取らせるこのような爆発的な心の動きは、人間を人間たらしめてくれるような気がして、なんだか凄い良い事なのではないだろうかなどと私は思う。

 

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恐怖とは何か。

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廃墟を目の前にしたとき私は、恐怖と興奮を同時に覚えた。今から我々はとんでもない所へ足を踏み入れようとしている!という恐怖と、本当にこのような廃墟が今もなお存在しているのですね…!という興奮。空を見上げると頼りなさげに月は輝き、気温はおそらく氷点下をいっている。頼りになるのは懐中電灯とスマホの明かり。その瞬間私の脳裏には、ムーミンママの言葉が瞬時によぎった。「どんなものでも、暗やみのなかでは、おそろしいものに見えるのよ」うん、きっと、きっとそうなのだ。我々はゆっくりと、廃墟の中へ足を踏み入れて行った。

 

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一体何年放置されてきたのだろうか。我々が足を運んだ廃墟は、想像していた以上の廃墟であった。人が居ない状態が長く続くと、建物【その内部空間】は死ぬのだということを肌身で感じた。建物だけではなく、そこに放置されたあらゆるもの全てが腐敗している。ドキドキとワクワクで心臓を躍らせながら、我々は探索を開始した。「足元に気を付けろ」「階段がある」「なんか臭うぞ」「なんかクサいな」「ネズミのうんこがある」「ちょ、誰か先頭行って」

 

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恐怖とは何なのだろうか、ということには昔から関心があった。経験上、「怖いと思っていたものも意外とやってみたら全然大したことなかった」ということは多い。事実、廃墟の中へ足を踏み入れたら恐怖というものは消えていた。一番ビビり倒していた友人も、いつの間にか廃墟探索を楽しみ始めていた。これはある種の錯覚なのかもしれない。恐怖の真っ只中にいると、逆に恐怖を感じないという錯覚。期末テストの前日になると謎の余裕を見せるのと同じ(?)アレで、恐怖の中へ突撃してしまえば恐怖を感じることは無く、後になって「なんだ、こんなものか」と思える自分を発見する。

 

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 だとすればおそらく、恐怖を感じている状態こそが錯覚になる。恐怖を勝手に作り出しているのは我々の方で、始めから何も恐れる必要は無かったのだと気付いた時、今後自分が「これは怖いだろうな…」とか「これはヤベぇだろうな…」という場面に遭遇することがあったとしても、「ちょっとやってみるか」といった感じで度胸が身につく。今、何かしらの恐怖を感じていることがあるのだとしたら、ちょっとやってみよう。恐怖の中へ積極的に自分の身を投じるということが、愚かなように見えて実は最も賢明なやり方だったみたいなことは多いような気がする。

 

 

必要なものは揃っている。

Twitterをやっていると、ネットビジネスアカウントから大量のフォローが来る。彼らの自己紹介欄にはたいてい「よりよい生活を求めて!」とか「もっと自由な生き方をしよう!」とか「お金を稼いで安定を手に入れよう!」とかなんたらかんたら書かれている。そのような言葉に騙されてはいけないと思う。必要なものは揃っている。大事なのは、ないものをかき集めることではなくて、今あるものを活かすことだ。今あるものを活かすことができた時、同時に自分自身を楽しませることができている。逆に、今あるものを活かすことができていない時、たいてい自分自身を楽しませることができていない【自分自身を蔑ろにしている】。

 

八月末のある日の午後、ムーミンパパがしょんぼりと、庭を歩きまわっていました。なにをしたらいいかわからなかったのです。なにしろ、しなければいけないことは、自分かほかのものかがもうすっかりやってしまったように思えましたもの。

ー『ムーミンパパ海へ行く』(講談社文庫)

 

ムーミンパパの気持ちが分かるような気がする。なんかもう、人間がしなければならないことは何もないよなあなどと最近は思う。が、このような思考に嵌る原因は、外側に何かを求めてしまっていることにある。大事なのは、しなければならないこと【自分の外側にあるもの】ではなくて、何かをしたいと思えること【自分の内側にあるもの】なのだと思う。私の場合特にやりたいことはないけれど、その時々において「何かをやってみたい」と思える瞬間はある。そう思える心は紛れも無く自分自身の中にあり、必要なものは自分の内側にある。であるならば私は、何かをしたいと思えるその心を大切にしたいなと思う。

 

自分が恐怖を感じる瞬間、恥ずかしいなと思う瞬間、そしてその時自分という人間が一体何を考え、何を思うのか、私はそういうことに興味がある。自分の楽しませ方を知っているか。これを自分に問う。私が尊敬しているスナフキンは言う。「大切なのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよ」と。しなければならないことなんて何もない。やりたいこともなくていい。でも、ふとした瞬間に、何かをしたいと思える自分の心を掴むことができるかどうか。自分のしたいことを知っているということは、多分、そういうことだと私は思う。

 

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