ダメなままで行きなさいよ。

 平日の真昼間に、瀬戸内海を眺めながらCarryMeで海岸沿いを走っていると、「うおおおお!!」と叫び出したくなる程の悦びを覚える一方で、「自分はいつまでこんなことができるのだろうか」という切なさを刹那的に覚えた。この後待ち構えている人生の荒波に、自分は耐え抜くことができるのだろうかと、そういうことを、瀬戸内海を眺めながらのんびり自転車を漕いでいる最中に考えてしまうくらいには、私は将来にとてつもない恐怖を感じている。

 

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言葉の限界。

千葉県かその辺りでヒッチハイクをしていた時のこと。私は、自転車のチェーンに折り畳み傘が食いこんで身動きがとれなくなっているおばさまを発見した。「こりゃー大変だ!」と思った私は、その場で手を黒く汚しながらも、なんとかチェーンに絡まっている折り畳み傘を除去した。するとおばさまは大層喜んでくださって「ありがとうございます!」と言って去っていき、その背中を見ながら私は「ああ、今日は善い事をしたなあ~」という快感に溺れていた。が、あろうことか、その数分後におばさまは再び戻って来て、「ありがとう!」という言葉と共にジュースを買って与えてくれた。

 

これは何も、「目の前で困っているおばさまを助けた私は素晴らしい人格の持ち主である」という類の話がしたかったわけではない(が、したかった部分もある)。これは私の大袈裟な解釈になるけれど、「言葉の限界を見たな」と思った。感謝の言葉を述べるだけでは足りない、言葉では到底伝えられないおばさまの思いが、贈り物(ジュース)として届けられたということである。

 

私は、お歳暮とかお中元とか、そういう形式的な贈り物文化にはまるで興味関心が無い。大口を叩くけれど、そんな形式的・儀式的に行われる贈与は、贈与ではないと思っている。本当の贈与とは、多分、言葉の限界を越えたところで行われる。重要なのは、贈り物に宿される人間の心であり、贈り物をするという行為それ自体に価値はない。おばさまからジュースをもらった時、なんだか人間の心というものを間近で見たような気がして、私は、そのジュースをもらえることがこの上なく嬉しかった。

 

 

完璧を求めると、人は傲慢になる。

先日、哲学に詳しい友人とお話をしていて、「哲学は完璧を求め過ぎているな~」ということを思った。ちょっとした偏見になるかもしれないけれど、哲学を深め過ぎていくと、(完璧を求め過ぎるが故に)何かを知ったような感覚に溺れて次第に傲慢になっていく気がする。ツァラトゥストラのように、「私は真理を獲得した!」と吹聴して人々に説教をして回る者ほど、真理を獲得していない。自分のことを偉いと思っている人間に、偉い人間はいない。中江藤樹(?)の言葉に「全ての学問は”徳”に通じている」的な意味合いの言葉がある。その通りだなあと思う。何かを知ったような感覚に溺れて「俺は凄い!」と傲慢になってしまったら【徳を失ってしまったら】、「なんのための学問なのだろう」ということを思う。

 

私たちは、なんにも知らないのだと思う。今、目の前にいる人が何を考えているのかもわからない。「生きることがどういうことなのか」も分からず、「死ぬことがどういうことなのか」さえ分からない。死ぬことがどういうことなのかさえ分からないのにも関わらず、ひょっとすると死んだ後は極楽に行けるかもしれないのに、私たちは何も分からないまま死ぬことを恐れていたりする。そのような中で、「私は全てを知っている!」と語る人間のなんと愚かなことか。完璧を求めず、謙虚に、徳を積み重ねるような日々を送りたいと思う。

 

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初めてクスクスカレーを食べました。

 

gram.ac

 

ダメなままで行きなさいよ。

初対面の人に対して、どのように話を切り出していけばいいのかが分からない。「最近は寒い日が続いていますね~」とか「お仕事は何をされているんですか~??」とか、そういうどうでもいい会話をしていると、退屈で死にそうになる。正確には、上手く愛想笑いができない自分に腹が立ち、相手に不快感を与えてしまうことを恐れている。だからと言っていきなり「あなたにとって生きるとはどういうことですか?」みたいな話に持っていくと、それはそれで「なんじゃいお前は!?」みたいな感じになる。この八方塞がりの状況を打破するためには一体どうすればいいのだろうか。

 

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私は、私を面白がってくれる人と話がしたいのだと思っている(のだと思う)。これはなんだかヒッチハイクと似ている。私を面白がってくれる人は車に乗せてくれるし、面白がってくれない人は何事も無かったかのように通り過ぎて行く。でもだからといって、面白がってくれない人を私が恨んだり憎んだりはしない(逆もまた然り)。人間関係も、多分、そういうものなんじゃないのかなと思う。職場とか学校では、全ての人と仲良くしなければならないみたいな風潮があって、それができる人を所謂『協調性のある人』とか『社交性のある人』とか言われるけれど、全ての人と仲良くすることなんて、そんなことできるはずがない。私はそのような人間を、今までに見たことがない。

 

初対面の人に対してどのように話を切り出していけばいいのか、この問いについては何も解決されていないままだけれど、ひょっとするとこれは愚問なのかなとも思う。この問いは『全ての人と仲良くしなければならない』という前提の上に成り立っている。この前提を覆そう。全ての人と仲良くする必要なんて全くなく、私は私を面白がってくれる人と仲良くすれば良いのだという前提に立てば、始めから何も無理をする必要はなかったのだということが分かる。初対面の人との接し方とかそんなことよりもまず私ができること、それは自分という人間を出すということであり、嘘偽りなく「私はこういう人間です!」と曝け出すことだ。そしてこのようなダメな自分を面白がってくれる人が一人でもいるのだとしたら、それはもう本当にありがたいことだなあと思う。

 

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