最終的に戻ってくる場所

朝9時に起床。ヨーグルトに美酢(ミチョ)をかけて食べる。歯磨きをしながらこたつに入る。パソコンを開いてカタカタしていると、お昼になる。最近は、比較的気温が高くて過ごしやすい。昼寝をしたり、映画を見たり、本を読んだり、パソコンをカタカタしていると、いつの間にか夜になる。お風呂に入って、珈琲を淹れて、パソコンをカタカタしていると、いつの間にか眠っていて一日が終わる。

 

中学生の頃、私は剣道に明け暮れていた。毎日5時半に起きて朝練に行く。土日は練習試合が行われ、休む暇はない。正直、剣道をするのが嫌になっていた私は、公園で穏やかにゲートボールをしているおじいちゃんおばあちゃんを見て、「良いな~」と思っていた。そのことを思い出し、最近の私はおじいちゃんのような生活ができているのではないか!?と思うと、「ああ、夢が叶った…!!」と思った。

 

 

存在しているということ。

週刊少年ジャンプの大人気ギャグ漫画である『銀魂』の作者・空知英秋さんは言う。「自分の作品を世に出すことは、誰かにケツの穴を見せるぐらい恥ずかしい」と。私も、このようなブログを書いていて、恥ずかしいなと思うことが何度もある。(自分の作品などとは到底言えない)こんなどうでもいい文章をブログにまとめ、鼻息荒くドヤ顔をして周囲に拡散する。自らのこの愚行によって、精神がやられてしまいそうになることが何度もある。ケツの穴をぶち抜いて脳天を貫く程のイタみ。そんなイタみに耐えかねて、ついには過去記事を消しまくった。

 

ブログを更新する度に精神的ダメージを食らう私が、しかしそれでもブログを更新し続けるのは、(大袈裟になるけれど)『自分が存在していること』を確認したいからなのだと思う。これはSNSにおける投稿の一種である。自分が思ったこと、自分の経験したことを、誰かに見てもらう。本来であればそんなもの、誰かに見せる必要なんて全く無いのにも関わらず、それでも誰かが見ているところにそれを流す。変な言い方にはなるが、おそらく、誰かに見てもらうことを通して初めて、それは『存在している状態』になるのだと思う。我々人類が宇宙を認識することで初めて、宇宙は存在していることになるのと同じように、芸術作品が誰かの目に触れて初めて、その作品が完成するのと同じように、自分という存在もまた、誰かからの眼差し【今これを読んでくださっているあなた】によって存在していることになる。別に、誰にも見てもらえないからと言って、自分が存在しないことにはならない。ただ、人間は『我思う故に我在り』では足りない部分【弱さ】を抱えていて、自分で自分の存在を完結させる程には強くできていないのだと思う。

 

 

存在を完成させること。

これはかなり人間中心主義的な考えになるけれど、この世に存在するあらゆる物質は『何か』を伝えるために存在している、のだと思うことがある。この『何か』とは何なのか、それがおそらく人間の『心』と呼ばれているものになるのだと思う。自分の想いを言葉にする、好きな音楽を聴く・奏でる、誰かに贈り物をする、どれもこれも、空気や光その他この世のあらゆる物質を介さなければ為し得ることができない。人間の『心』と呼ばれるもの、人間の内に宿る目に見えないエネルギー、それはこの世の物を借りてしか伝えることができない。そのことを思う時、「ああ、この世は完璧に出来過ぎているな~」みたいなことを思う。

 

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この世のあらゆる物質が『何か』を伝えるために存在しているのだとすれば、では、人間は一体何のために(何を伝えるために)存在しているのだろうか。今までにも何度かこの問いについて考えたことはあるけれど、全然分からなかった(今も分かっていない)。が、今漠然と思うのは『人間は何かを存在させるために存在している』ということである。宇宙も芸術作品も自分という存在も、誰かがそれを認識することによって、それは紛れも無く存在しているということになる。カッコよく言えば、人間の眼差しが存在を完成させる。もしも、人間に役割のようなものがあるのだとしたら、それは『存在を完成させること』にあるのだと思う。

 

 

最終的に戻ってくる場所

 何不自由なく生きることができている今、それでも私は、どこか満たされない部分を抱えている。これはおそらく、私だけではないはずである。思うに、自分を含めたあらゆる人がコミュニケーションを求めている。それは自分の存在を完成させてくれるコミュニケーションであり、誰かからの眼差しを伴った温かみのある言葉のやり取り。お世辞とか社交辞令とか世間話とか、そのような表面的な言葉のやり取りではなく、深い部分でのコミュニケーション【人の心に触れる瞬間】を求めている。何をするにしても、そこに人とのコミュニケーションが発生していなければ、後になって強烈な虚しさ・孤独感に苛まれる。どれだけ金があろうとも、ブランド物で自分をどれだけ着飾っても、人間の心に触れることができなければ、虚しさや孤独感のど真ん中で迷子になってしまう。

 

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「何をやってもつまらない」「何もする気にならない」と、いつの間にか虚無に陥ってしまった時、人間関係に疲れ「死んでしまいたい」と思った時でさえ、最終的に戻ってくる場所は、やはり『人間』になる。学校をサボり、ヒッチハイクをしながら各地を平行移動していた私は、何処に行ってもつまらなかった。一人で観光名所を訪れても、一人でご当地グルメを食っても、何も満たされなかった。しかし、乗せてくれた人が観光案内をしてくれる、ご当地グルメを食べさせてくれる、食糧や日用雑貨やお金を与えてくれる、時には家に泊めてくださる、そのような『人との関わり』が生まれた時、私の満たされない部分が満たされていく感覚を覚えた。

 

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人間が最終的に戻ってくる場所は、人間である。これは大きな発見である。テストで良い点を取ることよりも、たくさんのお金を稼ぐことよりも、ブランド物を身に付けることよりも、そんなことよりもまず、コミュニケーションだなあと思う。この世の森羅万象は、人間が何かを伝えるために存在してくれている。そして自分以外の他者は、自分という存在を完成させてくれる眼差しを与えてくれる。私は生きていて、あなたも生きている。そのことを確認し合えるような言葉のやり取り。学歴や職業や資格などに惑わされることなく、今目の前にいる人が何を思い、何を考え、どのようなことを経験してきたのかという『その人自身』に目を向けるということ。これ以上に重要なことは、何も無いとさえ思う。

 

 

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