2018年の抱負。

朝6時に起床して身支度をし、近くの神社へ初詣に参る。気温は0度。クソ寒い。他の人々が作法通りにお参りしている中で私は、二礼二拍手一礼とかそういう煩わしい作法を完全に無視して、静かに鈴緒をつかみ、丁寧に3回揺らす。カッコよく言えば、我流でやる。こんな作法知らずの私にはいずれ、バチが当たるのだろう。最悪の場合(ゴッドの逆鱗に触れて)殺されるかもしれない。だから私は、お祈りをした。生まれて初めて「生きることができますように」などと訳の分からないお祈りをした。

 

 

生きることが許されている。

私は神様などという存在を一切信じていないけれど、調子の良い時には「何かとんでもなく大きいものの力によって我々は生かされているのだ」という感覚を覚えることがある。その偉大なるものの力によって、物理的に完璧なこの世界は創られ、そしてその世界の中で精神的に酷く脆い部分を持つ者【人間】が、様々な感情に揺られながら生きている(のだと思うことがある)。笑ったり、泣いたり、楽しんだり、苦しんだりしながら、それでも人間は生きることができていて、生きることが許されている。そのことを、調子の良い時には感謝をし、調子の悪い時には悪態をつく。

 

 人間の感情は移ろいゆくもので、全ては流れ去っていくものである。辛いと思うこともあり、楽しいと思えることもあり、死にたいと思うこともあり、生きたいと思うこともある。他人の感情どころか自分の感情ですら、安定させることができない。常に不安定で、すぐに揺れ動いて、簡単に自分の軸がブレていってしまう。そんな自分を情けなく思うこともあれば、「もう、これが俺なんだ」と開き直ることもある。しかし、どのような感情に揺さぶられようとも、時に死にたいとさえ思うことがあっても、それでも我々は生きることができていて、生きることが許されている。これはもうアレだろう、好きなように生きなさいと、そういうことなのだろう。

 

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 正しいものなんてない。

年末のテレビ番組を見ていると、『剣道』を取り上げている番組があって「うおっ!」と反応した。中学・高校と剣道をしていた私としては、見ない訳にはいかなかった。しかしその番組の趣旨に違和感を覚えた。それは「アメリカ人が間違った剣道をしていて、間違った剣道をしているアメリカ人に、正しい剣道をしている日本人が制裁を加える」という内容のものであった。アメリカ人の剣道を見ながら、日本人の出演者達は皆口を揃えて「あんなのは間違っているよ」とか「正しい剣道を知らないんだね」とか言う。しかし私は、そんなコメントを聞きながら「どれが正しいかなんて分からないじゃないか」と思った。

 

二礼二拍手一礼をするのが正しいとか、日本の剣道が正しいとか、私は、そんなことは分からないし、そんなことはどうでもいいと思っている。実際神様は、二礼二拍手一礼とかどうでもいいと思っているかもしれない。神様からすれば、日本の剣道は間違っているかもしれない。この2つの例だけに限らず、今、正しいとされているものが本当に正しいのかなんて、実のところ分からない。分からないことだらけだ。分からないことだらけだけれど、しかし、そこに『人間の気持ちが込められているかどうか』なら、なんとなく分かるような気がする。

 

 

人間の心を見る。

正しいとされていることからははみ出ていたとしても、そこにちゃんとした『人間の心』みたいなものが込められていれば、そこに正解も間違いもないのだと思う。むしろ、そこに込められた人間の心を無視して、「正しいのはこっちです」とか「俺が正しいんだ」とか、そういうことを主張し始めた瞬間から間違った方向に進んで行くような気がする。多様性を認めるとかそんな大それたことが言いたいのではなくて、なんというのだろうか、人間が心を込めて貫き通していることなりものなり文化なりが素晴らしいのだと言いたい。

 

結局大事になってくるのはひとの心の部分なのだと思う。何万年も受け継がれてきたけれど、今それを受け継いでいる人達が(伝統があるからという理由で)嫌々受け継いでいるのだとしたら、そんなものはいらないと私は思う。「みんながやっているからなんとなく私も」みたいな中途半端な気持ちで何かに取り組んでいるものがあるのだとしたら、そんなものはやめてしまえばいいと思う。大して話したくないもないことを、その場を凌ぐ【沈黙をかき消す】ためだけに話しているのだとしたら、そんな話は要らないと思う。ひとの心の部分は、自分自身を誤魔化している限り絶対に出て来ない。 だから私は、心の部分が見えない人【自分自身を誤魔化している人】には反応することができない。そういう人とは距離を置きたいと思う。

 

 

という訳で、今年の抱負は『修行』です。ここで言う『修行』とは、『ヤバイ』と同じくらいの汎用性を誇る『修行』のことであります。自分の精神を磨き上げる修行、あらゆる人と話をしながら自分という人間を知っていくという修行、自分の純粋性を守り抜くという修行、様々なものに込められた人間の心を読み取るという修行、自分の肉体をムキムキにしていくという意味での修行、本当に様々な意味での修行ということで、2018年、ワタクシ、『出家』をするくらいの勢いで参りたいと思っています。