謙虚でいたいと思う。

 

退屈をしている。電車に乗って、毎日同じ道を行き来していると、何もかも捨て去ってどこか遠くに行きたいとか思ってしまう。毎日同じ階段を上り下りしていると、俺はいつまでこんなことをしているんだろう、とか思ってしまう。穏やかな授業雰囲気の中で、先生がちょっとしたギャグをかましても笑えなくなる。醜いひとを見てはいちいち反応するようになる。物を丁寧に扱えなくなったり、怠惰な時間を過ごしてしまいがちになる。当たり前のことを当たり前のこととして捉えるようになり、傲慢な態度をとり始める。私は、退屈をしているときの自分が嫌いだ。この状態を端的に言うと『腐っている』ということになるのだろう。

 

www.jiyu-hajikeru.com

 

 

f:id:hase9822:20171123185538j:plain

 

植物を部屋に置いてみることで、この退屈を紛らわそうとしたのかもしれない。この愛くるしいフォルムの植物を見ている時間だけは、穏やかな気持ちになることができている。植物を愛でているときの自分は好きだ。最近は、自分のご機嫌をとっているような気がしている。他人のご機嫌よりも自分のご機嫌。自分のご機嫌をいい感じにしていれば、多分、周りのひともいい感じのご機嫌になる。

 

 

家を家だと思えない。

f:id:hase9822:20171107214954j:plain

 

電車の窓から、密集した家々を見ていても、それを家だとは思えない。なんというのだろうか、大袈裟に言うと『金で独占された空間』に見える。このように見え始めたのは、野営をするようになったからかもしれない。ヒッチハイクでどこか遠い場所に行き、さて、今日はどこにテントを張ろうかと考え始めると、途端に『住宅街』が邪魔になる。住宅街のど真ん中にテントを張るわけにもいかないし、適当な公園でテントを張ろうものならコワモテポリスに絡まれるような気がする。そうなると必然的に、山か川か海岸沿いになる。

 

f:id:hase9822:20171107214936j:plain

 

猿などが住宅街に出没して、稀にニュースなどで捕獲されるシーンを見る。私はそれに軽く違和感を覚える。もしかしたら、猿は俺と同じことを思っているのかもしれないなどと、謎の仲間意識が湧いてきて、テレビ画面で必死に逃げる猿を見ては、「負けるな!頑張れ!」と心の中で思っている。別に動物愛護団体みたく「可哀想!可哀想!」などと言いたい訳ではない。ただ単純に、どうして(動物であるという一点において我々人間と同志である)猿が住宅街に出没しただけで捕獲されるのだろうか、ということを思う。

 

 

自分の枠で限定しない。

確かに、危険なのかもしれない。しかし(これを言い出したらキリがないかもしれないけれど)我々がコンクリートで道路を舗装し、家を密集させて勝手にテリトリーを形成してしまっているから、(テリトリー外の動物が出没するだけで瞬時にそれが)危険なことのように見えるだけかもしれないなどと思うことはある。話が飛躍するけれど、これは人間同士にも言えるのではないかと思っていて、他者を敵であると認識するから敵に見えているということは往々にしてある気がしている。

 

他者を敵だと認識すれば、他者は敵に見える。当たり前のことだ。自分がそう思ったものは、確実に自分の中でそうなる。「そのひとにとってはそうである」という感覚は、意外にも恐ろしいものだったりする。自分の感性や知識や経験を誇り、傲慢な態度で語り出すひとを見ると「愚かだな」ということを思う。「この世の中はこうだ!」とか「これからの時代は〇〇!!」みたいなことを高飛車に言ってしまっているひとを、相手にしてはいけないと思う。謙虚であるということは、多分「自分の枠で限定しない」ということだと思う。自分の枠で限定した途端に、自分の枠で限定された世界を見てしまう。すると、自分の枠の外で生きている人間の存在が邪魔になる。自分のテリトリーを死守するために、自分の枠外のあらゆるものを排除したくなるような焦燥感に駆られる。これではあまりにも醜いじゃないか。

 

f:id:hase9822:20171107214916j:plain

和歌山城。

 

謙虚でいたいと思う。自分の枠に囚われてはいけない。物を丁寧に扱う。言葉を丁寧に扱う。文字を丁寧に書く。姿勢を正す。俯かない。普段の何気ない行動に心を込める。多大なる恩恵の中で、自分は生かされているのだという感覚を忘れない。まずはそこからだと思う。