寂しさに呑み込まれてはいけない。

 9時に目が覚める。布団の中が心地よくて、出られない。モソモソと幼虫のように携帯をいじっていたら、1時間が経過した。仕方なく起床して、冷蔵庫を開けてソースとマヨネーズを手に取り、それを薄っぺらいえびせんべいに塗りたくって食べる。えびせんべいを食べているというよりかは、ソースとマヨネーズの融合体、これすなわち『マヨネース』を食べているに等しい。えびせんべいがマヨネースに完全服従し、口の中ではマヨネースによる独裁政治が行われていたのだが、突如としてえびせんべいが口内革命を起こし、その鋭いえびせんべいの破片が口の中を切り裂いて、神【すなわちこれ私】の逆鱗に触れた。

 

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他者を批判しているとき、(相対的に)自分の存在が際立つような錯覚を覚える。しかし、それはやはり幻に過ぎず、どこまでいっても自分は自分。他者を蹴落とすことで際立つ自分など、程度が知れていると思う。大袈裟に言うと、私は、人間の絶対的な部分【本質】を掴みたいと思っている。嘘をついている人間や、何かを誤魔化している人間は、必ず何処かでボロが出る。そういう人はたいてい、言葉に怪しさが漂っている。そういうひとを、相手にしてはいけないと思う。批判に応じてしまった時点で、自分は既に負けている。嘘や見栄で武装した卑怯な人間と戦うのではなく、何も装備していない、純度100%の人間と勝負をすること。コミュニケーションとは、そういうものだと思う。

 

 

何かをしている人を見て、「それは怖いだろう」とか「そんなのは無価値だ」などと批判へ走る人がいるが、私は、『そのひとにとってはそうである』のだと思っている。自分が「怖いだろう」と思えば、それは怖いものになり、自分が「無価値だ」と思えば、それは無価値になる。しかし、自分の感性なんてちっぽけなもので、「怖いだろう」「無価値だ」と思っていても、実際は全然そんなことなかった!なんてことは今までに幾度となく経験してきた。であるならば、自分の感性だけで物事を捉えてしまうのはいかがなものか、(自分の感性なんてたかが知れているのだから)生身の自分の身体で実際に突撃してしまおうではないかと、そういうことを思った。

 

 

 どうして、批判をするのだろうか。多分、寂しいのだと思う。ひとは皆、寂しさのようなものを抱えていて、あらゆる行動の根底に『寂しさを紛らわせたい』という思いが渦巻いている(と私は思っている)。最も効果的な寂しさを紛らわせる方法として、『ひとと話をする』がある。何かを誤魔化したまま話をするのではない、お互いが純度100%になって話をすること。純度100%のひとと話をすることの中には、安心感のようなものがあり、何も言葉を交わせていなくても、その人の存在それ自体がありがたいと感じるようになる。ましてや、その人との会話の中で共感するものがあったときの喜びは計り知れない。コミュニケーションの醍醐味は、これにあると思っている。あらゆる人と、何かを誤魔化したままの自分で接していると、自分を見失う。胡蝶の夢状態になる。第一疲れる。

 

 

寂しさに呑み込まれてはいけない。寂しさに呑み込まれてしまうと、ゾンビみたいになる。(一人になりたくないがために)自分を誤魔化したまま表面的な関係性の中を彷徨い始める。批判をして他者を襲うようになる。寂しさに呑み込まれてはいけない。寂しさに呑み込まれてはいけないのだと思う。

 

 

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奇妙な植物を祖母に購入してもらった。植物と球体の融合。一体誰が、この美しいフォルムを発案したのだろうか。その名も『南天』。南の天(そら)。カッコ良い。部屋のど真ん中に、ひっそりと佇む南天を見て、私は思うのである。「コイツは、おそらく、自分の美しさを理解していない」。花屋に置かれていたときは、あまりにも色気が無かった。他の花々の、圧倒的な鮮やかさに押し負け、展示棚の奥にひっそりと、怯えるようにして隠れていた。私が、なんとなくこの植物に興味を示したら、店員のおばさまが、「良かったら見やすいように出してみましょう」と言ってくれた。そうして台の上に置かれたとき、私は、この『南天』という植物が、自室の無機質な空間に、ポツンと置かれるところを想像してみた。その佇まいは、若干自信無さげではあるが、しかし私の部屋を、確実に彩ってくれる。そう、私は確信した。

 

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 亡き又吉に変わり、私はこの『南天』という奇妙な生物と共に、人生を、力強く歩んで行こうと思っている。

 

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決して、育成方法を、しくじってはいけない。