ウェイパリピソイヤ☆が非常に厄介。

最近、思ったこと。 

 

 本日も、濁った眼をした言語教師の授業を受けたのだけれども、もはや怒りを通り越して悲しくなり、涙が出そうになった。この人の授業は、つまらないのはもちろんのこと、分かりにくいのはもちろんのこと、何よりも、空間全体が、どんよりと重たい。物凄く上から目線みたいに聞こえてしまうかもしれないけれど、「ああ…このひとは、そうすることしかできないんだな」ということを思った。しかし、それが迂闊にも、濁った眼をした言語教師の、とてつもない悲しみの断片に触れてしまったような、なんだかそんな感覚へと変化して、濁った瞳の奥底に独り佇む、綺麗な瞳をした言語教師を、にわかにそこで見たような気がしてしまって、途端に今、目の前で授業をしている、濁った眼をした言語教師が、どうも不憫に思われて仕方がなく、そうして思わず、涙が、出そうになってしまった。

 

しばらくいくと何ぴきというニョロニョロが、東へ向かっていくのが見えました。海の底は、避難するものたちで、ごったがえしています。はつかねずみの一家やら、こけのトロールたち、森の動物たちなど、ありとあらゆる種類の小さな生き物でした。みんな、ムーミン谷からにげだしてきたのです。たいていは歩いていましたが、興奮して、走っているものもいます。けれども、手おし車か荷車をもってきているのがふつうで、家をそっくりそのままおしてくるものさえいました。どの人も、おびえて空を見あげていて、「ハロー」とあいさつするのが、せいいっぱいでした。ものをいうひまは、なさそうなのです。

ムーミントロールは、悲しくなりました。

「ふしぎだなあ。ぼくは、あの人たちをたいてい知っているし、長いあいだ、会っていないんだよ。だから、いまこそ、うんと話があるのに」

「あの人たちは、おびえているのさ」

と、スナフキンはいいました。

「ばかだなあ。自分の家にいて、おそろしいことなんか、あるものか」

と、ムーミントロールはいいました。

「ぼくたちは、きっとものすごく勇敢なんだ」

こうスニフはさけんで、宝石のきらきらしている、あの短刀を、ふりまわしました。

ムーミントロールは、首をかしげて、こういいました。

「ぼくたちが、特別に勇敢なのじゃないと思うよ。ただ、あの彗星になれてしまっただけなんだ。彗星と、なじみになってるくらいだもん。あれを知ったのは、ぼくたちがさいしょなんだ。しかも、あれがどんどん大きくなるのを見てきたんだ。彗星って、ほんとにひとりぼっちで、さびしいだろうなあ……」

講談社文庫『ムーミン谷の彗星』(下村隆一/訳)

 

多分、怒りを通り越すと、相手の悲しみに触れる。怒りの向こう側には、そうすることしかできなかったその人だけの悲しみがある。社会や世間などに抑圧され、嫌でも自分にまとわりつくようになったその人だけの負の一面【悲しみ】を見ると、なんだかもう、見ているだけで辛くなる。不思議なことに、相手の悲しみに触れた時、怒りの感情はいつの間にか霧消している。これを同情と言うのだろうか。これを同情と言うのであれば、今まで見て来た(経験してきた)『同情』が、この上なく陳腐で、軽薄で、滑稽な傷の舐め合いだったということが、痛々しく、ありありと想像されてしまう。私は、胸が締め付けられるような思いで、なんだかいたたまれなくなり、涙が出そうになるのを堪えながら、机に突っ伏して眠る振りをした。

 

 

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私は、この世界は上手く出来過ぎているなと思うことがある。太陽は都合よくそこにあり、地球は当たり前のように自転と公転を繰り返す。生物は何気なく酸素を吸って二酸化炭素を排出し、ひとたび精子と卵子が結合すれば、私のような複雑過ぎる生物も誕生する。物理的に完璧な世界の中で、しかし人間は、精神的にひどく脆いもの【心】を抱えて生きてきた。そしてその心は、多分、完璧なものよりも実体のないものに反応するようにできているのだと思う。世界や、自然や、自分という、完璧なものの存在それ自体には目もくれず、学歴や職業や所有物、人脈、地位、権力など、そのような実体のないものに囚われ、それをひけらかし、勝ち誇る。現代ではそれが暴走をして「学歴が無ければ生きていけない」などと言われ、「何も持っていない(何もしていない)お前に価値はない」などと言われ、「そんなんじゃこの競争社会で食っていけないぞ」と言われ、その言葉を盲信し過ぎた者から自滅をしている気がする(理由も意味も見出せないといって自殺をしたり、自分自身に学歴や職業や所有物などの表面的なものを貼り付けて、自分の存在を誤魔化したまま死んでいく)。本来であれば、【在る】だけで良かった。ただ、そこに在るというだけで、人間には価値がある。太陽や、地球や、海や、森のように、完璧な存在なのだと思う。

 

 

話がデカくなった。私は、「お前のために~」とか「誰かのために~」とかを言って(しまって)いる人を、あまり信用していない。性格が悪いのだろうか。自分のあらゆる行動に、理由や意味といった表面的なものを付け足して、それをひけらかしている人を見ると、いたたまれない気持ちになる。じっとしていられなくなる。手で顔を覆いながら、「コイツ、マジかぁ~……」と、溜息さえ漏れ出てしまう。性格の方が、やはり、よろしくないのだろうか。いや、しかし、実際国会議員とかを見ていると、そのように思ってしまう自分がいる。どちらかと言うと、「自分のために」行動している人、さらに踏み込んで大袈裟に言うと、神に導かれるが如く超自然的に行動して(しまって)いる人に、私は、絶大なる信頼を置く。シンプルに言うと、純粋で、嘘をついていない人や、衝動的な馬鹿、が好きなのだと思う。

 

 

 

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 立ち話が苦手だということを、最近思った。立って話をしていると、物凄く疲れる。なぜなのだろうか。多分、ちゃんと話せないからだと思う。どうしても、心の込もっていない言葉を使いがちになる。昔から、駅のホームで知り合いを見かけても、話しかけたくないどころか、逃げ出したいと思っている自分がいる(今では眼が悪くなってしまって何も見えていない)。別に嫌いだからとかそういうことではない。話しかけると(話しかけられると)、そこで立ち話が発生してしまう。凄く疲れる。立ち話に物凄いエネルギーを消費してしまう。立って話をするのは、挨拶だけで良いのだと思う。

 

 

それから、大勢が集う飲み会も苦手なのだということを、最近、再確認した。物凄く疲れる。なぜなのだろうか。多分、ちゃんと話せないからだと思う。人が集まれば集まるほどに、コミュニケーション濃度的なものが薄まり、表面的なコミュニケーション【心のない言葉のやり取り】に終始しがちになる。場の雰囲気や、周囲のうるさいテンションに影響を受けて、言葉を適当に扱うようになる。そして何よりも、一番厄介なのは、ノリに乗れていない私を見て、謎にテンションをぶち上げようとしてくるウェイパリピソイヤ☆の存在であり、そのようなウェイパリピソイヤ☆の謎の気遣いによって、ウェイパリピソイヤ☆になりたいとは一ミリも思っていない私が、ウェイパリピソイヤ☆になれないことを謎に悔しがり、理不尽に自己嫌悪の闇へと突き落とされることが、本当に、不愉快で、仕方がないのである。

 

 

 そう。結局は、己の環境適応能力が、著しく欠如しているだけの話であり、それがなんだか非常に悔しく、たったそれだけで不機嫌になってしまう自分を自覚しては、人間を失格した葉蔵のような、いっそのこと完璧な道化師になれたら楽になれるかもしれないなどと、そのような浅はかな考えをしてしまうくらいには、ワタクシ、軽く将来に絶望しているのであります。

 

 

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