最悪の午前になったとしても、最高の午後になることはある。

 

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「某相撲力士が暴行をした」とか「弁護士がタクシーで暴れ回った」とか、朝のニュースほどつまらないものはないと思う。私はニュースなどはもう見ない!と先日決意したのだけれども、どうしても私の父はハイエナの如くそういうニュースを好んで取り入れ、「相撲業界も終わったな」とか「弁護士にも野蛮な奴が多いな」などと、まるで全部を知ったかのような口ぶりで傲慢な台詞を吐き、片手で食パンをむしゃむしゃ貪りながら、しまいに「こういうニュースを見ておかないと社会に置いていかれるぞ」的な話に発展していくところを見ると、「これが社会的人間の末路か…」と思う。社会に置いていかれるとは何だろうか。置いていかれた人間に価値はないのか。ニュースを見ないと決意した私に、お前に価値はない【すなわち死ね】と言っているのか。

 

 

「これは朝っぱらからきっついなー」と思った私は、一点虚空を見つめることに集中をしていたのだけれども、それを察したのか察してないのか、陽気な母親が父親の話を(自身の経験を交えながら)うまくまとめようと努め始めて「ニュースの話が思わぬ誰かと仲良くなれるきっかけになる」的な話をするものだからますます私は空気になるが、母親の話しぶりはどことなくチャーミングであるので不快には思わない。

 

 

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1限目から、濁った眼をした言語教師の声を聞かねばならぬと思うと異常に頭が重く、行きの電車で項垂れながら居眠りをしようとしていると、長年会っていない旧友から突然連絡が入ってきて、「今から紅葉を見に行かないか」というものだから私は完全に舞い上がってしまって、それがいつもの友人でなく長年会っていない旧友であったことがあまりにも嬉しくて、「ベストタイミング!」と心の中でガッツポーズをした。それでもやはり濁った眼をした言語教師の授業には行かなければならなかったので、それ以外の授業は全てサボって紅葉を見に行くことにした。

 

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車内で旧友といろいろな話をしながら、兵庫県宍粟市にあります最上山公園で行われているもみじまつりに参加して、美しい紅葉の数々を見た。荒んでいた心がみるみるうちに回復していくのを感じ、涙が出そうになる。真っ赤に染まった紅葉を見て「真っ赤だな!」と思う。笑顔の可愛い旧友と「フォトジェニック!フォトジェニック!」などと騒ぎながらiPhoneで撮影をする。謎にテンションが上がって、そこで40~50枚ほどもみじを撮った。

 

 

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ほのぼの。

 

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その後は同じく宍粟市にあります『原不動滝』という絶景スポットに参って、マイナスイオンを感じた(とか言ってみる)。水が上から下に落ちていく。ただそれだけであるのに、どうしてこんなに美しいのだろうかと思う。この瞬間、午前と午後が完全に別離した感覚があった。この感覚が凄く新鮮で、午前中に最悪なことに見舞われたとしても、午後にはひとは最高の瞬間を取り戻すことができるのだということを知った。

 

 

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紅葉に慣れてしまってはいけないぞ!と旧友と話しながら急いでその場を離れまして、豊岡市にあります『安国寺』というところに行くことになる。ところがどっこい豊岡市に行く道中私は、「今夜は(私の大好物である)たこ焼きだった!」ということを思い出し、焦る。この日のために母親が準備をしている(たこやきの粉にこだわっている)というのに、完全に忘れていた。授業をサボりにサボりまくって、挙句の果てに約束をすっぽかすという失態。とてつもない罪悪感に襲われる。父親に死ねと言われて当然だったなと思う。しかしここは正直に「紅葉を見に行っているから遅くなる」と伝えると、ものの数秒で「紅葉を楽しんでこい!」と返信が来て、なんだかもう(もみじだけに)赤っ恥をかいてしまって、己の器の小ささを知った。

 

 

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 最悪な午前になったとしても、最高の午後になることはある。私は、そういうことを強く思った。私という人間はひどく弱いので、どうしても感情の浮き沈みが激しい。それでもやはり、醜いものに囚われてしまっていたとしても、美しいものには反応することができる自分を誇らしく思う。

 

朝のニュースを見ていると「殺伐としてる風に見えるな」と思う。しかし、殺伐としてる風に見えてもそれはほんの一部であって、美しいものはそこらじゅうに在り、美しいひとはそこらじゅうにいる。社会に置いていかれるぞとか、やりたいことを見つけないといけないぞとか、そういうことを言われ続けても、美しいものには反応できる自分がいる。だったらそれでいいじゃないか。社会とかやりたいことに囚われるから醜いものに反応するのだ。

 

醜いものを見ている人間は醜い。最悪の午前になったとしても、最高の午後になることはある。これが昨日得た教訓であります。