クソガキがエンタメになればいい。

 

 

この世は多数派が必然的に勝つようにできている。多数派の人間は少数派の人間を見ていないのではなく、見えていない。『見ていない』と『見えていない』、この違いは圧倒的である。しかし、私はいわゆる、遮光カーテンを閉められたことに憤慨している訳ではない。ただ、「そうか…そうだよな…(俺が女性だったら俺もそうする…)」と、そういうことを思っただけである。

 

 

他人と自分との間に境界線は存在しない。

誰かのことを嫌いになるとき、同時に自分自身も嫌いになっている。自己嫌悪に陥る。逆に誰かのことを好きになっている時、同時に自分自身も好きになっている。ルンルンな気持ちになる。他人を嫌いになるということは、自分を嫌いになるということであり、他人を好きになるということは、自分を好きになるということである。これはつまり、他人と自分との間に境界線はないということであり、自分を好きになりたければ他人を好きになれば良いのだと思う。

「自分のことが好き☆」と吹聴してまわる態度は嫌われるかもしれないが、自分のことが好きな人ほど他人から好かれていることは多い(気がする)。逆に、「自分のことを嫌う」という、その態度が嫌われる(人を不快にさせることがある)のだと思う。自分を好きになれていない人ほど、他人を好きになれていない。他人を好きになれていないひとほど、他人に好かれていない(気がする)。常に他人を意識することは愚かであるが、自分を好きになれていないとき【自分を見失ったとき】、(自分ではなく敢えて)他人に意識を向けてみることで、自分を見つけることはある。

 

 

この世に敵は存在しない。

誰かに愛してもらいたい【誰かに好かれたい】と思っている間は、多分、誰からも愛されないし好かれない。自分から誰かを愛したいと思った時に、初めて人の心は開かれる。「この人は俺のことをどう思っているんだろう」とか「あの人は私のことが嫌いなんだろうか」と、猜疑心にまみれた眼で相手を見たとたん、どうしたって相手は敵に見えてしまう。当たり前のことだけど、他人を敵だと思っている人に味方を見ることはできない。自発的に「この人を愛そう!」と思えた時、瞳を汚す猜疑心は消え去り、自分が実は大量の味方に囲まれながら生きていたことを知る。本当は、敵なんていないのだと思う。学校や職場などの社会に揉まれてしまうと、常に他人は比較の対象となり、競争の相手になってしまう。他人に対する不信感を醸成し、被害者意識に囚われて自ら敵を生み出してしまう。違うのだ。そうじゃない。本当は、敵なんていないのである。『この世に敵は存在しない』、そう思えた時、自分から(「自発的」を超えて「超自然的」に)あらゆるひとを愛することができるのだと思う。

 

 

なんだかさっきから、『自分を好きになる』とか『ひとを愛する』とか書いてしまっている自分が自分に「そのへんにしとけ」的なことを囁いてきたので、このへんにしておきます。なんとなく察していただけたら幸いですが、基本的にこのブログはギャグです。はせがわさんという一人のか弱い生き物が必死に言葉で自分自身を奮い立たせている【なんか知らんけどクソガキが勝手にもがいている】様を見て、「こいつはバカだな」と笑っていただけたら幸いであります。そして、なんとなくでも「これはちょっとわかるなー」と共感する部分があったならば、非常にワタクシとしては嬉しいのであります。

 

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