狂った音を発する人には、本当の音【本音】を聞かせる必要がある。

 

 

人の発する言葉を音として聴く。何気ないことを言っていても素晴らしい音を奏でる人もいれば、綺麗な言葉を使っていても狂った音を発する人もいる。素晴らしい音を奏でる人は、純粋に人と話していることを楽しんでいて、狂った音を発する人は、単に寂しさを紛らわせているだけ【1人でいることに耐えられないだけ】である場合が多い。私はそういう人と一緒にいると露骨に態度に出してしまうのだけれど、これは別にその人のことが嫌いであるというよりは、そうすることでしか寂しさを埋め合わせられないその人に対して「お前は寂しいんだな」というある種の同情の念を抱いてしまっていて、なんというか、「頼むからしっかりしてくれよ」と溜息混じりに呆れているという感覚に近い。

 

 

狂った音を発する人は、空間全体を歪ませる。人数の多いコミュニティではその歪みを多少ごまかすことができるが(ごまかしが効かなくなると『いじめ』に繋がるのだと思う)、少人数のコミュニティではそれが一際大きな歪みとして存在し、たちまちコミュニケーションの流れを切る。コミュニケーションの流れが変な途切れ方をすると、必然的に違和感が残る。「ん?コイツは何かがおかしいぞ?」と、「コイツは何かをごまかしているぞ」と、私はその人の奥底から漏れ出る負のエネルギーみたいなものを感じ取り、途端にその人から発する言葉に反応することができなくなる。

 

 

狂った音を発する人と一緒の時間を過ごしてしまうと、その日一日を台無しにする。そのことばかりを考えてしまって、その人の顔ばかりがちらついてしまう。思考のベクトルが完全にその人に向いてしまって、怒りや憎しみの感情すらも自ら生み出してしまう。愛想笑いを浮かべても、威圧的な態度を示しても、同情の念を抱いても、現状は何一つ変わらない。本当の優しさを抱き、本当の平和を願うのであれば、自分自身が『本当の音【本音】』を語る必要があるのだと思う。

 

 

人は生まれた瞬間から、漠然とした、それでいて強烈な寂しさを抱えているのだと思う。それは『他者に認識される』ことでしか解消することができず、ブログやTwitter、Facebookなどの投稿はその最たるものであり、実のところ、そこではみんな同じことを言っている。「SNSなんて承認欲求を満たすためのものだ」という意見はよく耳にするけれど、それは『承認』と『認識』をごちゃ混ぜにしてしまっているのだと思う。私は『承認』と『認識』は別物であると思っていて、前者は自分の存在を認めてもらうためのものである【認められなければ自分は存在しない】が、後者は自分の存在を確認するためのものである【認められなくても自分はただそこに存在する】気がする(無論、『他者からの認識』が暴走をすると『承認欲求』へと変貌する)。多分、人間は『我思う故に我在り』では足りない、他者からの認識【共感】でしか埋められないものが確実にある。自分と他者、その両者を通じて自分の存在を確認した時に、人は初めて『寂しさ』から逃れることができる。その点私は、ブログやSNSは素晴らしいものであると思っていて、他者から認識されること【自分の存在を確認すること】がこれほど簡単な時代に生まれてきたことを嬉しく思っている。

 

 

話が逸れました。

 

 

『人と話をする』ことと『ブログやSNSでいいね!をもらう』ことの違いは、認識の純度にあり、ブログやSNSでいいね!をもらうことよりも、人と話をすることで得られる認識【共感】には、生身のその人自身から伝わる温もりみたいなもの【LIVE感】がある気がする。

 

 

話が逸れました。

 

 

狂った音を発する人には、本当の音【本音】を聞かせる必要がある。愛想笑いを浮かべてその場を凌ぐのではなく、露骨に威圧的な態度を示して距離を置くのではなく、「お前は寂しいんだな」と同情するのでもなく、自分自身の本当の音を聞かせることが、逆に狂った音を発する相手を救うことになるのだと思う。

 

 

なんだか言葉にすると凄い偉そうなことを言っているが、私自身は全く、全然大した人間ではない。こういうことを何度もここで言葉にしては自分を奮い立たせている節がある。まだまだ言葉に支えられている部分が大きい。

 

 

まだまだ言葉に支えられている部分が大きいが、何事も深刻に考えてはいけない。私は基本的にドヤ顔でこのブログを更新しており、『今日も良いことを言ったな』という快感に毎度溺れている。(が、1週間して自分の過去記事を見ると死にたくなることが頻繁にある)