コミュ障は幻想だった。

 

最近、「コミュ障ってなんだ?」って思う時があって、今まで散々ボケも交えて「俺はコミュ障だ」とか「コミュ障治してーぞ」みたいなことを言ってきてたのに、それが最近になってですね、「あれ?コミュ障ってなんだ?」って思い始めてる自分が居て少し戸惑ってるんですが、「ひょっとするとコミュ障って幻想だったんじゃねーか」みたいなことを漠然と思っています。「多分『コミュ障』っていう言葉を使うからダメだったんじゃないのか」と、「ただ単にお前は表面的なコミュニケーションへの耐性が著しく欠けてるってだけで、それがなんだか悔しいというか、そのせいで周囲にうまく溶け込めない自分を『コミュ障』という言葉を使うことで誤魔化してきただけなんじゃねーのか」と、そういうことに最近気付き始めてですね、それがなんだか自分の中でストン…と入ってきたというか、「うおぉぉ…」という若干のダメージを食らいつつも、「やっとスッキリしたな」という静かな興奮を覚えています。

 

 

 

事実、始めからスッと話せる人は過去に(かなり少ないけれど)何人かいるし、コミュ障だとは言いつつも、「人と話をしたい」って思っている自分はちゃんといるし、「この人好きだな」「この人なら基本的になんでも許せるな」って人ならどうでもいい話でも全然楽しめるですけど、でもなんだかよくわからない人とどうでもいい話をしてる時は露骨に態度に出るというか、そういう自分がいてですね、で、そこで、「コミュ障ってなんだ?」ってことを考えた時に、「俺は表面的なコミュニケーションが嫌なだけだったんだな」ということに薄々気付き始めて、「あれ、だったら俺って、(好きな人となら話せてるんだから)全然コミュ障じゃないじゃん。」というところに着地をしました。

 

 

「じゃあお前は今までコミュ障を何だと思ってたんだ」って聞かれると、私にはよく分かりません。なので、多分、コミュ障という言葉を使うことで自分自身を守ってきたというか、「コミュ障だから許してね」みたいな感じで甘えてた部分があって、ある種の保険というか、ハンデみたいな意味合いで使ってたんだと思います。

 

 

で、ここからが結構重要になってくるんですけど、どっちかっていうと『自分が話す』というよりかは、『人の話を聞いていたい』って思うことがあって、なんというか、人の話を聞いている時間って『その人の話を聞きながらそれを自分に問う時間になる』っていうか、話しているその人の言葉を自分の心に染み込ませて『お前はどうだ?』って自分に問いかける瞬間があって、それでいろいろと自分に問いかけた結果、いろんな発見があったり、いろんな感情になったり、「俺って結構いろんなこと考えることができて、いろんな気持ちになることができて、俺って結構感受性豊かなんだな」って思う瞬間があって、そういう自分がいることに安心するというか、なんだか胸のあたりがジュワ~ってなる感覚を覚えることがあって、『人と話をすることの醍醐味はこれだな』と思うことがあります。

 

 

多分ですが、自分のことをコミュ障だと言っている人程、『人と話をしたい』って思ってて、でもなんというか表面的なコミュニケーションをしてくる人には露骨に不機嫌な態度をとってしまって「もしかしたら嫌われるんじゃねーか」と怖くなってしまうから、一応『コミュ障』という言葉を使うことによって、「(本当は不機嫌になってるんだけど)不機嫌じゃないですよ~コミュ障ですよ~」みたいな、、、、、、あー、今これ書いてて、「そんなこと気にしてた俺、クソだせぇ…」みたいなことを自意識が語り掛けてきて、今猛烈に死にたいということを思い始めているのでまとめに入ります、はい。

 

 

極論、「好きでもない人には嫌われてもいいな」と思えた瞬間からコミュ障ではなくなるということで、好きでもない人から嫌われない努力をすることよりも、好きな人と思う存分話をしていこうと、好きな人との時間を大切にしていこうと、そういうことですね、これがもう、一番重要なことですよね。