家族からの愛情に殺されてはいけない。

f:id:hase9822:20170903084835j:plain

 

これは最近頻繁に思うことなのですが、みなさん、遮光のし過ぎです。電車に乗るとカーテンは閉まっているし、街を歩いていると日傘を差している。みなさん、遮光のし過ぎです。カーテンが閉まっていると景色が見えません。日傘を差しているとあなたの顔が見えません。私はこんがりと黒く焼けているのですが、これは私が外出をし過ぎているのではなく、みなさんが遮光をし過ぎて(相対的に私が黒く見えて)いるだけに違いありません。

 

今週のお題は「家族に関して思うこと」です。

 

家族からの愛情に殺されている。

f:id:hase9822:20170930220751j:plain

 

 (自分を含め)家族からの愛情に殺されている人は意外と多いんじゃないかなと思うことがあります。多分、そのほとんどは愛情という名の『執着』で、「幸せになって欲しい」という思いは「自分が今幸せでないこと」に対する未練とか心残りとか、そういうものの現れなのだと思うことがあります。私からすればそれは完全に余計なお世話で、「(私の幸せをどうこう言う前に)まずはあなたが幸せになってくれ」ということを思います。『誰かに幸せになって欲しい』という言葉は『自分が今幸せではない』ことの裏返しになるのだと思います。

 

『家族』との関係は、多分、人間関係の中で最も難しいものなのだと思います。生まれた時から物理的な距離も心理的な距離も近すぎるあまりに、ここぞ!といった場面でお互い『過干渉』になる場面は多いのではないでしょうか。「家族なんだから!」「お前のためを思って!」こういう言葉を聞くと、私は耳を塞ぎたくなります。これは親になったことがない私のわがままになるのかもしれませんが、ここぞ!といった場面【大事な決断をする場面】だからこそ、ただ純粋に「見ていて欲しいな」ということを思います。19歳の、まだまだケツの青いクソガキである私としては「ただ、見ていてくれる人」に強烈な後光を見ます。

 

家族の愛情とは、本当の愛情と執着とのケイオス。

f:id:hase9822:20170930220717j:plain

 

「幸せになって欲しい」という思いが『執着』であるならば、「純粋に見ていてくれること」が『本当の愛情』になるのかもしれません。家族の愛情とはそれらがごちゃごちゃに入り乱れたケイオス【混沌】で、『本当の愛情』で溢れていてもどこかしらに『執着』は潜み、『執着』でまみれていてもどこかしらに『本当の愛情』は宿るのだと思います。『執着』を『本当の愛情』として受け取ってしまうと(愛情に殺されて)精神は腐り、『本当の愛情』を『執着』として受け取ってしまうと人間が腐ります。

 

大事なのは、『これは執着だな【余計な御世話だな】』と思ったら明確に「うるっせぇぇぇぇぇぇぇぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁあああksjだお;ふぁ:あいj!!!!」と叫び発狂し暴れ回り(どこか遠くへ行くことをオススメします)、『愛されているな【見てくれているな】』と感じたら心を込めて『ありがとう』と伝えることだと思います。

 

f:id:hase9822:20170930220639j:plain

 

 とは言っても、家族からの愛情に殺されているなどと苦悩するのは非常に贅沢なことで、世の中には生まれた瞬間から親に見放され、本当に殺されている人も存在します。そういうことを考えると、「ウチのとっつぁんかっつぁんは(俺みたいなクソガキのために)よく頑張っているなぁ」ということを思います。

 

以上、今週のお題「家族に関して思うこと」でした~~終わり。