可愛いければ何をしても許される。

バイト先で結婚式が行われました。全然知らない人の結婚式にバイトという身分で参加して思ったのは「ほぉ、これが結婚式というものか」ということです。幼い頃に親戚の結婚式に参加した記憶は薄っすらと覚えているのですが、大人(?)になってから結婚式という空間を経験したのはこれが初めてになります。それはまるで、幼い頃に何回も見ていたジブリ映画を、大人になってからもう一度見てみたらなんとなく『意味』が分かった的な感覚に似ています。そして、全然知らない新郎新婦の誓いのキスを、バイトという身分でありながら実際に目撃して思ったことは、「ほぉ、結婚式というのも悪いものではないな(ニヤリ)」ということです。

 

 

可愛さとユーモアがあれば死なない説。

いついかなる時にでも、『可愛さ』と『ユーモア』は大事になってくるのだと思います。これは物凄く変な言い方になりますが、赤ちゃんが可愛いのは、多分、『親に見捨てられては困るため』なのだと思います。というのも、赤ちゃんは親に見捨てられてしまうと自力で生きていくことが出来ません。誰かの助けがないと生きていくことは出来ない。これはある意味、誰かに助けられながら生きるためには『可愛くなければならない』ということで、別の言い方をすれば『可愛ければ死なない』ということです。

 

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学校をサボり、ヒッチハイクで日本中をぶらぶらしている時に、所持金が限りなくゼロに近い数値(ていうかゼロ!)になったことが頻繁にあるのだけれど、割とそういう時に限って周囲の人からお金を頂く機会は増えます。誤解をしてもらっては困るけれど、私は『お金がないんです。お金ください!』などと言ったことは一度もないし、基本的にお金の話をすることもありません。にも関わらず、別れ際には千円や五千円や一万円を手渡されることが多々あります。お金だけでは飽き足らず、あろうことか日用雑貨や食糧など、ありとあらゆるものが手渡されていきます。

 

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なぜ、このような現象が起こるのか。これは非常に僭越ではありますが、これは私が可愛かったからorユーモアがあったからなのではないかと、そういう風に解釈をしています(ドヤ顔)。ええ、自分で言うのが今物凄い恥ずかしいのですが、もうこれしかないんじゃないのかというくらいにドライバーさんからお金やらなにやらをもらうので、これはもうそういうことなのだろうと、勝手にブリッコ的な解釈をしています(ドドーン!!)。

 

 

『ユーモア』とは

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ドライバーさん宅で恵方巻を作る図。

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ユーモアという文字を見ると、何かこう、おチャラけた感じの明るいイメージを私は抱いてしまいがちなのですが、むしろ逆で、私が思うユーモアとは『弱さ』です。弱さを抱えている人間は、往々にしてその弱さを隠そうと必死になります。がしかし、残念なことにこれが全くうまくいかない。全然うまくいかない。自分の弱さを隠そうとすればするほど自意識に苦しみ、『自分はどう思われているんだろう』とか『自分なんか生まれてこなければ良かったのに』とか、ひっそりと周囲に怯えてしまうことは多いです(とは言っても表面上では環境に適応している)。なんというか私は、自意識で破滅してしまいそうな人(ひっそりともがいている人)を好む傾向にあって、そういう人を「ユーモアがあるなあ」と思います。(全然うまく伝わっている気がしない。)

 

 

『可愛い』とは 

私が「この人良いな」と思うのは、大抵『可愛さ』か『ユーモア』に溢れている人で、とはいっても顔が可愛いとか仕草が可愛いとか本田翼が可愛いとか、別にそういうことではなく、なにかこう、その人が帯びる雰囲気と言いますか佇まいと言いますか、『アトモスフィアプリティ』を身に纏う人は最強であるように思います。そしてそのような『アトモスフィアプリティ』を身に纏う人は何をしても許される傾向にあり、事実、赤ちゃんはウンコを漏らしても許されます。

 

この『可愛い』という概念は必ずしも『人』にしか当てはまらないものではなく、私が今日目の当たりにした『結婚式』という空間自体にも、どことなく『可愛さ』があって、それが「良いな」と思えた要因になっているのではないかと。

 

 

 

 いずれにせよ、可愛ければ何をしても許されるということで、できることならばウンコを漏らしえも許される程に可愛かった幼少期に戻りたいと思う今日この頃。