お葬式が生きる儀式だとは思わない。

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お盆の時期がやってきた。私は基本的に霊的なものを信用していないので、お盆だのお墓参りだのお葬式だの、そういうスピリチュアル的行事を苦手としている(※UFOはめちゃくちゃ信じている)。

 

 

嫌いな四字熟語は「冠婚葬祭」で、そもそも『お墓』と呼ばれる石の物体それ自体に疑問を感じている。どうして人は、長方形の石の下に遺骨を埋めて毎年祈りを捧げるのだろうかと、そう思っている。もし仮に霊的なものが存在するのならば、それは石の下の遺骨に宿るものではなく、自然【nature】に還るものだと思っている。万物は流転し、命は繰り返す。上を向いて歩いていこう。私はそういう風に思う。

 

 

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お葬式が生きる儀式だとは思わない。死者へ思いを馳せるのにそもそも儀式なんて必要ない。ただ、今生きている人間が何かの拍子にふと死者のことを思い出すことの中にも、確かに死者と繋がっている感覚はある。

 

 

 

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インドでは、遺体を燃やして遺骨を川に流すと聞く。墓石も葬式もお供え物も、本当は何も必要ない。生きている者が死んでいる者に対してふと思いを巡らす。死者が心の中で生きているとはそういうことで、墓石も葬式もお供え物も、本当は何一つ必要ないし、ましてやお墓参りやお葬式などの堅苦しい儀式も必要ないのだと思う。

 

 

これは余談になるけれど、現代では儀式が空回りをしている傾向がある。お墓参りやお葬式だけに限らず、学校の入学式や卒業式なども、その堅苦しさや規模の大きさに何かしらの窮屈さを感じていて、形式としての儀式がダラダラと執り行われている(ように思う)。現代風に言うと『格式ばるミーハー』で、なにかこう、伝統的なものを継承していこうとするあまり、厳正・厳粛・厳格な性質だけを真似た(あるいはその性質だけを強化した)形式だけの儀式が多い(気がする)。つまり、物凄くシンプルに言うと『疲れる』

 

 

 

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別段、死者に対して何かをする必要は無いのだ。ふとしたことをきっかけに死者に思いを馳せ、誰かと話をし、共有をする。ただそれだけで充分、死者に寄り添うことはできるのではないだろうか。『死』というテーマはタブーとされることは多いが、でもだからこそ私はもう少しPOPに、肩の力を抜いて考えたいと思う。

 

 

 お坊さんが茶髪のロン毛だった時のような感覚で、肩の力を抜いて考えよう。

 

 

 

 お坊さんがオートバイに乗るような感覚で、POPに軽やかに考えよう。

 

 

 

 

 お墓参りなんていらねえYO!お葬式なんていらねえYO!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と思っているからだろうか、最近霊的なものに襲われる夢を見る。それが最近すんんんんごい怖いからお墓参りとかを馬鹿にしている場合ではない。ていうか今一刻も早くお墓参りしたい。