嘘つきは泥棒の始まりですという常套句に隠された真のメッセージ。

嘘つきは泥棒の始まりです

 

 

という叱責の常套句を、母親、もしくは学校の先生に言われはしなかっただろうか。

 

 

私が地球上に産まれ落ちてから19年、今振り返ってみても、本当に様々なことがあったように思う。

 

 

悪さをしては嘘をつき、また悪さをしてはしらを切り、

 

 

私はこれまでに何万回にも及ぶ泥棒の始まりを経験してきた。もう泥棒の始まりが始まりすぎて、一体どの始まりから泥棒になればいいのかと迷ってしまうくらいには泥棒の始まりを経験してきた。

 

 

 

人は誰しも幼き頃に泥棒の始まりという名のゲートをくぐったはずだ。

 

 

「私まだ泥棒の始まりを経験したことがないの」とは言わせない。断じて言わせないぞ。

 

 

犯人が「俺はやってない!」と喚くのと同様、「私まだ泥棒の始まりを経験したことがないの♡」とほざく輩は間違いなく泥棒の始まりだ。いや、始まりではなく終わり、the end of DOROBOU!

 

 

 

 

人は誰しも嘘をつく。

 

この事実を踏まえると、街中を歩く人全てが泥棒の始まりを経験してきた前科ある人達であるという驚愕の事実があらわになる。

 

 

私も

あなたも

そこのあなたも

ほら、あなたも

みんな泥棒の始まりではないか。

 

 

ああ、この世は嘘にまみれている!

 

 

いやあああああああああああああああああああああ

 

 

 

 

 

 

しかし私はここで、ちょっと待てよと思う。

 

 

ということはつまり、母親や学校の先生も前科ある人間、すなわち泥棒の始まりではないか。

 

とすれば、私が幼き頃、嘘をつくたびに言われ続けてきた彼らからの、「嘘つきは泥棒の始まりです」という言葉は、叱責の言葉ではなかったのかもしれない。

 

 

 

「嘘つきは泥棒の始まりです(怒)」

ではなく

「嘘つきは泥棒の始まりです(真顔)」

 

 

「今日から新学期の始まりです」と全く同じニュアンスを含んだ、それは母親・学校の先生からの極めてシンプルな宣告。

 

 

 「お前もようやく嘘をついたのだから、ここから先はあなたも遂にDOROBOUなのですオメデトウ(真顔)」という

 

 

それは人生の節目を迎えた私に対するある種の祝辞。

 

 

 

 

 

 

私は、間違っていた。

 

 

DOROBOUである者たちを責め、DOROBOUである自分を恥じるのではない。みんなDOROBOUなんだから、みんなのDOROBOUを認め合おうと、みんな手を取り合って一緒にDOROBOUしようと、そういう段階にお前はようやく来たのだよと、母親・学校の先生は私に宣告し続けてくれたのである。

 

 

 

 

私は、愚かだった。

 

 

皆DOROBOUであるという前提に成り立つ社会で、全てのDOROBOUが受け入れられるようにという願い。何万回にも渡って私にDOROBOUを宣告し続けてくれた母親・学校の先生のあくなき執念。

それらを私は、「泥棒の始まりだぁぁぁあ!!!」と言っては非難し、蔑み、軽蔑し、踏みにじろうとしていた。

 

 

 

私はただ、逃げていた。

 

 

「嘘つきは泥棒の始まりです(真顔)」という、母親・学校の先生からの大いなる宣告を、単なる叱責の言葉として受け止めることで、「私はDOROBOUなんかではない!私はまだ、DOROBOUにはなりたくないんだ!!!」と自らに言い聞かせては、心の何処かでDOROBOUになることを恐れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皆DOROBOUであるという前提に成り立つ社会で、全てのDOROBOUが受け入れられるように!!!!

 

 

 

 

立ち上がれ

 

 

 

 

 

立ち上がるんだ!

 

 

 

 

 

お前はもう既に

 

 

 

 

 

 

立派なDOROBOUなんだ!!!!

 

 

 

 

 

 

うおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

こうして

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月1日、各国のDOROBOUたちは究極のライアーを求めてしのぎを削るのである。