様々な大人と話す。~面白がることと諦めること~

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今現在、千葉県船橋駅前のマックからこの記事を書いている。最近は天候を味方につけておりまして、清々しい快晴の日が続き、体調の方も頗るよろしいです。

3月末まで住み込みボランティアの募集も行っておりまして、何かしら私にできるようなことがあれば何処へでも行く所存でありますので、お気軽にご連絡ください。(hasehase0202@gmail.com)

本日も引き続き、感じたことを3000字以内で綴っていこうと思います。

 

大人と話をすること

先日は、栃木県小山市から茨城県土浦市まで、特別支援学校に勤める男性に送っていただいたのだけれど、とにかく彼は物知りであった。地元である土浦市だけにとどまらず、その周辺の地の歴史を広範囲にわたって私に話してくれた。

様々な大人と話す中で、「この人、半端ねぇ…!!」と心の底から尊敬できる大人に出逢うこともあれば、「私はあなたのような大人にはなりたくない」と拒否反応さえ起こす大人と出逢うこともある。大人と話すことの最大のメリットは、「自分よりも確実に経験値の高い人と話すことができる」ことだと思う。尊敬することのできる大人も、拒否反応さえ起こすような大人も、当然だけれど私よりは確実に人生経験が豊富である。今までいろいろな大人と話をしてきたけれど、「この人は19歳の私よりも人生経験が浅いな」などと思えるような大人とは出逢ったことがない。たとえ私が、「あなたのような大人にはなりたくない」と思った大人と出逢ったとしても、それはただ私が(もしかしたら私だけが)そう思っているだけで、その人が見ている私の知らない世界は確実にあり、そこに私は確かな経験の差を感じます。

だから私は「あなたのような大人にはなりたくない」とは思うけれども、決して否定はしない(できない)し、ただ私が「あなたのような大人にはなりたくない」と思っただけのことで、今世ではご縁が無かったということだ。

いずれにせよ大人と話すということは、自分よりも経験値の高い人と話せるということが無条件に保障されているということであり、そういう意味で見ると『大人と話をすること』にはメリットしか無いように思う。

 

面白がることと諦めること

誰かの考えを一方的に批判することの根底には、恐怖や嫉妬などの感情が渦巻いているのだと思う。それは、相手の考えの中に自分の知らない世界が見えてしまうという恐怖かもしれない。それは、相手が自分の知らない世界を知っていることへの嫉妬なのかもしれない。誰だって自分の知らない未知の領域に足を踏み入れる時、恐怖する。誰だって、自分にないものを他人が持っていたら、嫉妬する。

井の中の蛙大海を知らず状態よりも、井の中の蛙大海を知ってしまった状態の方が苦しいのは確かであり、だからこそ人は、自分の考えの中だけに留まり、そこに安住しようとするのだと思う。

 

コミュニケーションにおいて重要なのは、「面白がることと諦めること」だと思うようになった。相手の考えの中にある自分の知らない世界を面白がること、そして自分が面白いと思えない世界に触れた時には、「すみません、私にはその面白さが分かりません」という肯定的な諦めと共に「こんなやつもいるのか!」という驚きと発見を面白がること。「面白がることと諦めること」を心得ておけば、多分、恐怖や嫉妬に駆られることは無くなるのだと思う。

 

以前静岡県で出会ったWEB広告会社に勤める男性Fさんと、「コミュ障」に関するお話をした。Fさんは、人とお話をする際に「相手が見ている世界を見る」ということを意識しているのだと言う。一方コミュ障である私は「他人からこう思われたら嫌だ」という無意識を常に抱えていたのだと思う。

生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルが提唱した【環世界】という概念がある。端的に言えば、すべての世界はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考えだ。Fさんは【環世界】を心得て人と接していると言える。相手がどういう世界を見ているのか、何を感じ、何に感動し、何に興味を示すのか。そういったことを「景色が綺麗だねぇ~」といった何気ない会話の中に発見するのだと言う。彼は、天才だった。

 

私には、多分、彼のような高度なことはできない。むしろ「コミュ障」に関しては諦めていると言える。(過去記事:コミュ障を治す必要はない~つまらない嘘をつくよりも、面白い恥辱を晒せ~ )コミュニケーションにおいて重要なのは、「面白がることと諦めること」だ。コミュ障なんだから仕方がない。それを相手に受け入れてもらい、面白がってもらい、諦めてもらう。そして自分も、相手の考えの中に自分の知らない世界を見た時には面白がり、面白がることができなければ潔く諦める。偏狭な自分の視点から声高に「あなたは間違っている!」などと批判に走るのではなく、「すみません、私にはその面白さが分かりません」という諦めと共に、偏狭な自分の視野を拡張していく。

 

 

渇きと潤い

私は、誰かと一緒に居過ぎてしまうと「一人になりてぇ…」と思ってしまうし、逆に一人で居過ぎてしまうと「さみしい…」と思ってしまいます。このバランスをとるのが非常に難しいと常々感じていて、最近は唐突に「一人になりてぇ…」と思ってしまい、ヒッチハイクをやめて音楽を聴きながら歩いたりすることもあります。『人と居ると渇き、一人で居ると潤う』と言いますか、車内で一通りおしゃべりを終えた後に極度の疲労が襲ってくることもあって、そんな時はただひたすらボーっと景色を眺めたりすることがございます。「ああ、自分はなんて身勝手で我儘な人間なんだろう」と自己嫌悪に陥ることもしばしばあるのですが、そういう時間(一人になる時間)というのは大切なのだと思っております。

 いろいろな人とお話をすれば、いろいろな考えに触れることができる。しかし、ある特定の人物と一緒に居過ぎてしまうと、その人の考えにしか触れることができず、考え方が偏り、視野が狭くなって、行動が鈍る【外へと通じる思考の扉が閉じる】。

一方で、一人で居る時間は、いろいろなことに思考を巡らす時間になる。「今日はこんなことがあったな」「あれがしたいなこれがしたいな」など、今日一日の自分の行動を振り返ったり、自分の欲求に触れることができる【内へと通じる思考の扉が開く】。

 

私の場合、外へと通じる思考の扉が開いても閉じてもどちらにせよ渇いていくのだけれど、一人でいる時間があれば【内へと通じる思考の扉が開けば】次第に潤ってきて、「さぁ行こう!」とヒッチハイクへのやる気も満ち溢れて参ります。そういう意味で渇きと潤いのバランスというのはとても大事で、何事も【中庸(一つの立場に偏らず中正であること)】なのだなあと、このような言葉を考えた昔の人はやはり偉大だなあと、そんなことを思うようになりました。

 

 栃木県宇都宮市で出会った40代夫婦からかつ丼を買っていただく。

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(私が今最も憧れている!)猟師の彼氏さんを持つ女性とランチする。

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茨城県、霞ケ浦。

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 様々な大人と話す。~面白がることと諦めること~