汚いので、恥ずかしいので、読まないでください。

私は1月26日(木)から岐阜県高山市奥飛騨温泉郷にある旅館にて住み込みボランティアをしていた。客室の清掃やベッドメイキング、食器洗いの日々に追われながらも、夜には貸し切りの露天風呂に浸かることのできる毎日は物凄く幸せで、私は、何不自由のない生活を送ることができていた。しかし、そのような幸せな日々に突如として幕が降ろされることとなる。前代未聞の出来事であった。

本日は、適当に綴ります。

 

私は住み込みボランティア5日目にして、糞詰まりという、この世で最も私が嫌う病気(?)に苛まれた。糞詰まりという症状をご存知だろうか。文字を見るだけでいとも簡単に想像がついてしまうだろう。そう、糞が詰まるのである。すなわち、ウ〇コが出ないのである。便秘は腸内で起きるが、糞詰まりは肛門付近で起きる。よって、尻の穴が張り裂けるような激痛に悶えながらウ〇コが出ないという状況に苦しむのである。便意が襲ってきた時の激痛と、出したいのに出せない不快感が「死にたい」という自殺願望を呼び起こす。糞詰まりを経験したことのある人なら分かるだろう。経験したことのない人は、今想像しているものよりも遥かに苦しいと思ってもらって構わない。カチカチになった巨大なウ〇コの隕石は、まるで時間が止まったかのように微動だにせず、周りの時間軸をも静止させる程の威力を持つ。隕石は肛門を開いた状態で静止するものだから、隕石の上に隕石が積もり、その隙間から絶えずチョロチョロと液状のウ〇コがしたたり落ちる。表現が汚くなって申し訳ない。しかし糞詰まりというのはそれ程汚く、辛く、人間から「生きたい」と願う生存欲求までをも奪い去る。

そして私は言った。「もう、働けません……。」

 

この記事は岐阜県高山市高山駅のマックで書いている。本来12日まで働く予定だった私は、なんと、糞詰まりという理由で住み込みボランティアを強制終了させた。情けないことこの上ない。社長は近くの病院に行って来なさいとおっしゃったけれど、それは死んでも嫌だった。私が住み込みボランティアを強制終了させた要因は、糞詰まりによる激痛とそれに苦しむ姿を見られる羞恥心もさることながら、このままこの旅館に居たら病院に送られるかも知れないという恐怖によるところも大きい。元々私は病院が嫌いだ。(参考記事:『行きたいところへ行ける肉体』と『生きたいと強く願う精神』 )もう二度と行かないとまで誓ったぐらいである。しかも、肛門を見せに行くなんて考えられない。運が悪ければ看護師さんに「摘便」という手法で、肛門内をひっかきまわされるかもしれない。それならば死んだ方が遥かにマシだ。

 

共に働いた旅館の人たちに合わせる顔がない。恥ずかし過ぎる。病院は絶対嫌だし、糞詰まりで苦しむ姿を見られるのも嫌だった。とにかくここから消えてしまいたい。無理なものは無理だ。私の心がそう言ったらもう無理なんだ。逃げてもいいだろう。許してください。私は必死に「帰ります」と懇願した。社長は、一万円を私に与えてくれる。恥ずかしい。嫌だ。優しくしないで。私の存在を記憶から消してください。

私はバス停で一人、泣いた。

 

今現在も肛門の激痛に悶えながらこの記事を書いている。座るのも億劫になる程だ。かと言って立ってしまうと重力による便意を呼び起こしてしまう。どうして人間の肛門はこんなにも小さいのだろうかという疑念が脳裏をよぎり、私は無性に腹が立ってきた。お腹をカパっと開いて排泄物を流し出せるシステムが、どうして人間に備わっていないのだろうか。どうしてわざわざ、こんな小さい穴から排泄物を出さなくてはならないのだろうか。痔などで苦しむ人たちもそう思わないだろうか。自然界は極めて美しい数式で表すことができると聞く。だとすれば、人間が排泄する時の数式とはどのようなものなのだろうか。肛門という小さな穴から排泄物を出す、それが最も美しい排泄の形なのだろうか。違うと思う。もっと美しい数式で表される排泄の方法があるはずだ。今の排泄方法を数式で表すと、極めて複雑な式になるだろう。お腹をカパッと開いて排泄する、それが最も簡単で美しいはずではないのか。

 

私はいったい、何を言っているのだろう。恥ずかしい。とにかく何か書いて恥ずかしさを紛らわそうとしている。恥ずかしい。恥ずかしいけれど、このブログに晒すことには何の抵抗もない。恥ずかしいことも言葉にして笑い飛ばせばネタになるだろう。そうだ、全て笑い飛ばせばいいのだ。辛いことも悲しいことも恥ずかしいことも全部晒して、笑い飛ばしてしまおう。ぶっちゃけ、私は以前にも糞詰まりという理由で学校を休んだことがある。(もっと晒せ!)あの時は短期集中型の激痛で、今回のは長期集中型だ。長期集中型とか本当に勘弁してほしい。(笑い飛ばせ!)過去の恥ずかしいことも全部晒して晒して笑い飛ばせ。全ては時間が解決してくれる。

 

人生は何が起こるかわからない。いつ糞詰まりになるかもわからない。ただ一つ確実に言えることは、冬であっても、喉が渇いていなくとも、水分補給はこまめにしよう!ということだ。ネットでは一日2リットルを飲むのが良いと書いてたような書いてなかったような。確かに住み込みボランティアを開始してから、私は全く水分をとっていなかった。お茶は自分で沸かすシステムだったし、喉も渇いてないから別にいっか的な感じで全然飲まなかった。露天風呂から上がった時にウォーターサーバーの水を紙コップ一杯飲む程度だった。私は、あの時の私を恨む。なんて愚かなのだろう。過去に糞詰まりに苛まれた時に「冬でも水分補給はこまめにしよう」と神に誓ったはずだ。肛門に誓ったはずだ。なのになぜ、どうして!

 

書いても書いても恥ずかしさは消えない。私の精神は弱い。身体はマックにいるが、心は今現在自己嫌悪の真っ只中にいる。ホワイトボードを掲げてヒッチハイクをして他人の視線はもう気にならないと威張って、自分で自分の精神は強いのだとばかり思い込んでいた。ところがどっこい、たかだか糞詰まり程度でその場から消えてしまいたいと嘆いてしまう程に弱かった。私は最低だ。ほんとにどうしようもないヤツだ。でも、そんな私でも生きることは許されている。本当に生きていてもいいのだろうかと思うけれど、身体は動くし、今まで通り(正直やめてほしいけれど)便意も催す。糞詰まりになっても、人は死なないのだ。(重症の場合は死ぬらしいけれど)

 

生きている限り、辛いことや苦しいや悲しいことや恥ずかしいことは必ずある。そしてそれを乗り越えるか乗り越えないかの選択権も自分にある。私は逃げた。病院に行くことから、糞詰まりの激痛に嘆く姿を見られることから、私は逃げた。でも、それで良いのだと思う。無理なことを我慢してやり続けることを美徳とする風潮があるけれど、自分も今までやり続けることが重要だと思っていたけれど、やはり、無理なものは無理だ。自分の心が無理だと判断したことを無理やり続けていると、やがて精神は壊れる。自殺が生まれるのはそのせいなのかもしれない。無理なことに対して「無理です!」と言える勇気を持つことは、自分の精神を守る上で重要なことだ。私の考えは甘いのかもしれない。でも、甘くてもいい。周囲の人間からどう思われようとも私は、頑固に、自分がこうするんだと決めた方向に進んでいきたいと思っている。

 

疲れてきたのでかなり適当なまとめに入ります。

 

無理なことに対しては無理ですとはっきり言い、自己嫌悪に陥りながら、ああでもないこうでもないと悩みながら、やがては全部笑い飛ばしてしまおう。

生きてさえいれば、それで良いと思うのです。

 

汚いのに、恥ずかしいのに、読んでしまったね。