忘れたということは解き放たれたということ

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先日1月2日(月)、「ラーメンを食べに行こう!」ということで、兄と一緒に新年早々から兵庫県神戸三宮近辺を歩いて回った。兄が行きたがっていたラーメン店が二つとも立て続けに営業を休止しており、半ば心が折れそうにはなったものの、私たちはひたすらラーメン店を求めて歩き回った。生田神社周辺では一日遅れの初詣に来ているファミリー参拝客が多く、今年も良い年にしよう!と意気込んで笑顔溢れる人たちで賑わっていた。私は人混みの中が極めて苦手なのだが、そのような多くの人の笑顔を間近で見ていると、私はいつの間にか私の心が和んでいることに気付く。

本日も引き続き、感じたことを3000字以内綴っていこうと思います。

 

 忘れる

人は簡単に過去の出来事を忘れてしまう。もはや忘れない人間は存在しない。忘れることのメリットは何なのか。それは良い思い出にも悪い思い出にも囚われることなく『今』を生きていきていけるようになることなのだと思う。過去にも未来にも囚われない、厳密に言えば過去も未来も存在しないのだから、今、この瞬間を生きろ!と、私の脳は、全人類の脳はプログラミングされているのだと思う。

私の感覚的に、悪い思い出のほうが良い思い出よりも忘れにくい傾向にあるように感じている。何かに感激し、不思議と涙が流れていった時の思い出と、永遠とも感じられるような苦しみに悶えていたときの思い出。このふたつの思い出のうち、忘れ去りにくい思い出はどちらかと言われれば、私は後者の思い出を選ぶだろう。人間は生まれたときから保守的な生き物なのである。自分の身に起こった自らの生命を脅かすかもしれない思い出を脳に深く刻みこみ、再びこのような事態が発生したときに備えているのである。私は、高校時代の物理の教師の言葉を思い出していた。「物体はその場所にずっととどまろうとする性質(慣性の法則)を持っている。この宇宙は極めて保守的だということだね。」

宇宙が保守的であるならば、その宇宙に存在する人間が保守的であることもうなずける。人間の免疫能力に備わる二次応答、ケガをすれば自然治癒によって再生する皮膚、それらはおそらく何千年も前から人間に備わっている性質なのだろう。そのようなことに思考を巡らせた時、人間の性質は何千年も前から何も変わっていないではないか!という当たり前の事実に驚愕する。人間が宇宙という完全なる保守的な存在の中に存在している限り、太古の昔から備わっている私たちの性質は、今後おそらく何があっても変わってゆくことはないのだろう。

 

吸収と忘却のサイクル

話が逸れてしまったけれど、人間が何かを忘れるということは、ある種の警戒が解けた状態(解放された状態)なのではないだろうか。生命を脅かすほどの出来事を忘れたということは、脳は、もう大丈夫なのだよというサインを送ったということであり、心が跳ね上がるほどワクワクした出来事を忘れたということは、脳は、もっとワクワクさせてくれるものを探して来て良いのだよと、自らの身体に行動を促しているということである。

吸収すること、身に付けることだけが、人間にとって尊い行為ではない。何かをかなぐり捨て、忘れていくことも大切なのだ。

~西加奈子『うつくしい人』~

私はもっと忘れていきたい。もっと忘れて忘れて、吸収して楽しんで忘れて、吸収して悲しんで忘れて、吸収してワクワクして忘れて、吸収して苦しんで忘れて……をくり返していきたいと思っている。生きていくということは、吸収して忘れていくサイクルの連続なのだ。その点、ノープランで旅をするということは、圧倒的吸収力を持っているということである。過去記事(思考には質量が宿る。)でノープランな状態とは真空状態だという表現をした。私はそのような真空状態に、さまざまなものを吸収していきたいと思っており、重いよりも軽く、軽いよりも真空(無)の思考をもって行動していきたいとも思っている。

 

【把手共行(はしゅきょうこう)】~誰にでもともに歩く仲間がいる~

茶道や華道、武道など、その道を目指して、共に手を取り精進する仲間がいるのは実にうれしいものです。

四国巡礼のお遍路さんの笠には「同行二人」と書いてあります。その二人とは、自分と弘法大師様。遍路では、一人で歩いていても、弘法大師様がついていて、共に歩き見守っていてくれるのです。

孤独であっても、心のなかに共に手を取る仲間=内なる自分がいます。間違ったことをしそうなとき、「それはダメだ」とストップをかける心の声を感じたことがあるでしょう。誰にでも心のなかに、純粋無垢な自分がいて、手を取り合って歩んでいます。くじけそうになったら、内なる自分に声をかけてみましょう。きっとあなたを励ましてくれるでしょう。

~武山廣道『くり返し読みたい禅語』~

 私は最近、身近な人と食事を共にする機会に恵まれている。友人、親戚、先輩、家族。一緒に飯を食べてくれる人が一人でも存在してくれることは非常にうれしいことである。また、ヒッチハイクで旅をしている際にも、誰かが必ず手を差し伸べてくれる。道路脇にてホワイトボードを掲げていれば誰かしらが車に乗せてくれるし、誰かしらがお腹が空いているだろうと言って飯を奢ってくれるし、誰かしらがお金がないだろうと言ってお金をくれる。そのようなとき、誰かの優しさに生で触れたとき、私は決して一人ではないのだということを思う。しかし私は人間だから、良い思い出も悪い思い出も全部、やがては忘れ去ってしまうだろう。すべての思い出を死後の世界にまで持っていくことはできない。誰かが私を車に乗せてくれたことも、誰かが私に飯を奢ってくれたことも、誰かが私にお金をくれたことも、やがてはキレイさっぱり忘れてしまうのだろう。けれどそうだとしても、全部忘れ去ってしまうとしても私は、それら優しさの循環(吸収と忘却のサイクル)がこの世に存在したという事実だけは忘れないように生きていきたいと思っている。

 

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 正月も真っ只中、シャッターを下ろしている店が並んでいる中で営業しているラーメン店を見つけたのは良いものの、その店には行列ができていた。神戸牛らーめんを売りにしているラーメン店「八坐和」である。私たちは腹を空かせていたためにすぐさま行列の一部となった。20分程並んだだろうか、ようやく店内に入ることができた。私たちは注文したラーメンをすする。美味い。兄は塩で私は醤油だ。薬味に神戸牛のスジ肉とかレアステーキがある。一杯目はそのまま薬味を加えずに食べ、替え玉を注文してから薬味を全部投入して食べた。美味い。兄のラーメンは白く、私のラーメンは黒い。互いにスープを交換しながら食べた。美味い。私は、新年早々ラーメンを食べに来て良かったと思った。

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ラーメンを食べた後は、兄と一緒に登山をした。兵庫県須磨にある鉢伏山へと登った。正直、私は疲れていた。美味しいラーメンを食べた後は、ゆらゆらと電車に揺られながらうたた寝をしたい気分だった。ところが兄はぐんぐん登っていく。「この木はキモいな。人間で言うと全身にほくろがついてる感じだ。」とかなんとか適当なことを言っている。私は何かぼーっとしながらいろんな考えを巡らせたかった。しかし眼前にキレイな景色が開けると、いろんなことがどうでもよくなる。私は非常に疲れてはいたが、新年早々山に登って良かったと思った。

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 忘れたということは解き放たれたということ。