誰かに何かを伝えていく。

「夕暮れの田園風景(福岡県大刀洗町)」のフリー写真素材

先日、岡山県高梁市にて農家さん宅での住み込みボランティアを終了した私は、年を越すために地元へと帰りました。お別れ前夜には、従業員Hさんから3冊の本を頂き、帰り際には農家Mさんからマスカットを5房も頂きまして、私は「ここで働くことができて良かった!」ということを強く思いました。

本日も引き続き、感じたことを3000字以内で綴っていこうと思います。

 

シェアする

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Mさんから頂いた5房のマスカットを、乗せていただいた数々のドライバーさんたちと「美味しいね!これ超美味しいね!」と言い合ってシェアしておりますと、いつの間にか4房も食べてしまっておりまして、家族へのお土産として持って帰ることができたのはわずか1房だけでございました。

しかし、誰かと美味しい食べ物をシェアするということは、その分「美味しい!」と感じる人が増えたということでございまして、私は、5房のマスカットを家族4人でシェアするよりも、もっと多くの人たちとシェアすることの方が、より幸せになれる人が増えるのだなという当たり前のことを感じることができました。

 

全ての物質は、何かを伝えるために存在する

光が無ければ世界は見えない。世界が存在することは間違いないけれど、光が無ければ世界が私たち人間の目に見えることはありません。だとすれば、光は、私たち人間に世界を伝えるために存在するのではないか。また、宇宙が存在しなければ、私たち人間は存在しない(することができない)。とすれば、宇宙は私たちに、私たち人間の存在それ自体を伝えるために存在しているのではいか。と最近思うことがあるのでございます。空気の振動(言葉や音楽)によって、人間の感情が伝わることもありますし、炭素(鉛筆の芯)を通して文字としてそれが伝えられていくこともございます。

 すなわち極めて人間中心主義的に考えますと、全ての物質は、私たち人間に【何か】を伝えるために存在しているということでございます。

 

善か偽善か

「ボランティアっておかしいよね。ボランティアって偽善の塊みたいなものだよ。だって、道端に座り込んでるホームレスを見たときに、助けよう!って思って助けられる??ボランティアですよー!って名乗って初めて優しさを振りまくことができてる訳でしょ?だからボランティアは、ただの偽善の塊なんだよ。」

以前北九州市でお世話になった先輩とお話をした際に、ボランティアについての話題となりました。確かに、ボランティアと名乗って初めて、人は誰かのために無償で何かをします。しかし私は、たとえ偽善だったとしても良いのだと思っております。人間の感情というものが、この世に存在する全ての物質を介さなければ伝わらないように、人の善意(それが偽善だっとしても)は、行動に移されて初めて伝わるのだと思います。そして善か偽善かを判断するのは、ひとりひとりの人間でありまして、その判断基準は人によって違ってくるのだと思います。

 

伝えていく

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最も大切なことは、善も偽善も含め人間の感情というものを、この世のあらゆる物質を通して誰かに伝えていくことなのだと思っております。

従業員Hさんの善意は3冊の本(紙)という形で伝えられ、農家Mさんの善意はマスカットによって私に伝えられました。これらの善意を私は完全なる善意だと思っておりますが、地球上に70億以上もの人間がいれば、それは偽善だ!と言い張る人間が存在してもおかしなことではないようにも思います。

それと同じように、ボランティアという形で誰かの善意(偽善)が他の誰かに伝えられていくことこそが重要で、これは善だ!これは偽善だ!と判定することは(人間の多様性という観点から見ても)取るに足りないことなのだと思っております。

 

【誰家無明月清風(たがいえにかめいげつせいふうなからん)】~誰にでも慈悲の心が宿っている~

誰の家にも月の光は届き、清々しい風が吹く。「明月清風」は仏心(人間性・慈悲の心)を表していて、どんな人にも仏の心が宿っているという意味です。

修行中のお坊さんにも、あなたにも、悪さをした犯罪者にも仏心があるのです。人を傷つけることしかできない人はいないのです。見た目や態度、過去に起こした出来事で、人を判断するのはやめましょう。その人も同じ人間。大差はありません。

~武山廣道『くり返し読みたい禅語』~

私は、誰の心にも善意が平等に宿っているのだと思っております。そして同様に、人はその善意をまっすぐに見つめる眼(心)も持ち合わせているのだと思っております。しない善よりする偽善とはよく言ったもので、誰かの善を偽善と捉えることに慣れ、自分の善を偽善と捉えられるのを恐れて、善も偽善すらも誰かに伝えることができなくなってしまうことが最も愚かなことなのだと思いました。

 

 

誰かに何かを伝えていく。

 

ではでは、おつぽん!