「生きていること」それ以外全てが、人と人との違いである。

 

大刀洗の平野と日輪

 

今現在、友人と食事をするためにヒッチハイクで神戸方面へと向かっている。ヒッチハイクをしていると、若い人から高齢者まで、様々な年齢層の人たちと出会うことになるのだが、やはり、人はみんな違う生き物なんだなぁということをひしひしと感じる。

身長や体重といった身体的特徴、思考や思想といった価値観、それら全てが、違う。人は永遠に違う存在であり、これからも同じ人間が生まれることはないのだろう。逆に、人と人の同じところはなんなのだろうかと考えたときに浮かんだのは、「生きていること」であった。そして全ての人間が「生きていること」以外に共通しているものを挙げることができなかった。このことから、「生きていること」それ以外全てが、人と人との違いというやつなんだろうなと思った。

 

お金や地位・名誉のために生きてもいいし、それ以外のために生きてもいい

祖母の家の古びた本棚を漁っていると、ある本を見つけた。それが乙武洋匡さんの『五体不満足』という本である。

「どう生きていくのか」という問いは、そのまま「どのような人間になりたいのか」「何を最も大切にしていくのか」という問いにつながっていった。そこで、ボクは大切なことに気付いた。それまで、ボクが最も重要視していたのは、今から考えてみると、お金や地位・名誉といったのもだったと思う。

だが、そのような自分の価値観に気付かされた時、ハッキリと「そんな人生はイヤだ」と思えた。どんなに大金を持っていたって、死んでしまったら意味がない。また、いくら地位や名誉があったところで、まわりから嫌われていたら、そんなにつまらないことはない。つまり、お金や地位・名誉があっても、いい人生とは限らないのだ。

では、大切なことって何だろう。この問いに対する答えは、人それぞれ違って当然だと思う。やっぱり、お金や地位・名誉がいちばんだと考える人もいるかもしれない。それが、「価値観の違い」と言われるものだ。

~乙武洋匡『五体不満足』~

 人と人との違いを挙げればキリがない。人の数だけ価値観があり、人の数だけ生き方もある。お金や地位・名誉を追求して生きてもいいし、お金や地位・名誉以外のものを追求して生きてもいい。「生きている」という点において人間はフェアなのだから、生き方に正しいとか間違いとかは存在せず、自分の生き方を貫いていったらいいのだと思う。言ってしまえば、所詮は価値観の違いなのだ。

 

人と人との違いを受け入れることは大事だが、それが超絶難しい。

欧米とは違い、日本人はほぼ単一民族として生きてきた。すべてが同じであることが原則とされ、そこからはみ出ることを極度に恐れる。そして、はみ出た人間に対して待っているのは、差別や偏見。このような社会では、障害者が受け入れられるのはむずかしいだろう。

まさにこの通りで、日本はそういう国である。そのような国の中で、受け入れるという姿勢は大事だと思うが、この受け入れるという姿勢が超絶難しい。

障害とは全く関係のない話になるけれど、人は価値観の違う人間を前にしたとき、どうしても、その違った価値観を自分の価値観と同じにしようとする傾向があるように思う。「コイツの考え方は自分とは違う。なにかが気に食わない。批判してやろう。」そういう支配欲にも似た感情がふつふつと湧き出てきて、いつからか、ただの【違い】であったものが【間違っているもの】に変貌する。その瞬間に脳は、「コイツの考え方は間違っている!排除せよ!」みたいな信号を送るのだろう。

僕にもそのような経験があって、「コイツの考え方は気に食わないな。」と思って、いつの間にか批判みたいなことを言ってしまっていることがある。そして批判した瞬間はスカっとするのだが、後になって「あぁ、無意味なことしたなぁ」という自己嫌悪に陥る。だから僕は、自分と違う価値観を持つ人を前にしたとき、「そういう価値観もあるのか」と、受け入れる姿勢を持てたらいいなぁと常々思う。

 

「違い」を見ないこと≠「違い」を理解していること

 ご存知の通り、乙武さんは、身体的な特徴が目立つ。

 今でもよく、道を歩いていると、すれ違う子どもに「あの人、手と足がないよ。お母さん、どうして?」と言われる。お母さんは慌ててボクに「ごめんなさい、ごめんなさい」と頭を下げ、「いいから、こっちにいらっしゃい」と子どもを引っ張っていってしまう。「あ~あ」、そのたびにボクは残念に思う。またひとり、障害者に対するよき理解者を増やすチャンスを逃してしまったと。

違いを見ないことを、違いを理解していることと思い込んでいるような気がする。このお話しの母親は、「違い(障害)を持って生まれてきたあなたはかわいそう。そして、その違いがあることに、あなた自身も苦しみ、悩んできたんでしょうね。だから私たちはその違いを見ないようにします。」つまり、「違い(障害)を理解していますよ。」ということを暗に言いたいのだと思う。

違いを見ないことは残酷なんだなぁと思うと同時に、その残酷さよりも、理解者を失ったことに対する悲しみの方が大きいと感じている乙武さんを、僕は心から尊敬した。

 

 「違い」は表面的なもので、その本質は同じである

人は表面的なものに騙されやすい。人間関係、肩書き、そして「人と人との違い」。そういったものは、何故か、人をコントロールする力を持っている。

子どもたちの前でよくこんな話をする。「みんなのなかにも、メガネをかけている人がいるよね。それは眼が悪いからだね。ボクも、足が不自由だから車椅子に乗っているんだ」と言うと、子どもたちは「じゃあ、一緒だね」と笑う。そこで、「メガネをかけている人って、かわいそう?」という質問をすると誰もうなずかないのに、「じゃあ、車椅子に乗っている人は?」という質問には、ほとんどの子が口を揃えて「かわいそうだ」と言う。

「みんなは、眼が悪いからメガネをかけるのと、足が不自由だから車椅子に乗っているのは同じだと言ったのに、どうして車椅子の人だけ、かわいそうなのかな」と言うと、「眼が悪い人は、メガネをかけることで見えるようになるけど、足が不自由な人は、車椅子に乗ってもできないことがたくさんあるから、やっぱりかわいそうだ」という答えが返ってくる。

~乙武洋匡『五体不満足』~

 確かに、車椅子に乗ってもできないことがたくさんあるからかわいそうだということには納得できるけれども、納得できるんだけれども!納得できてしまうことの根底には、メガネをかけている人と車椅子に乗っている人との区別(差別)があるような気がする。メガネをかけている人と車椅子に乗っている人は、本質的には一緒だということはわかっているのだけれども、いつのまにか「違い」という表面的なものにコントロールされている自分に気付いたとき、「あぁ…」と、ため息が漏れてしまう。

 

人と人との違いを受け入れることは非常に難しいことではあるけれど、それを受け入れることさえできれば、自分が見る世界は圧倒的に広がり、より一層面白いものが見えるようになるのだろうなと思った。

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ではでは、おつぽん!