自分で不幸になれる人は、自分で幸福にもなれる。

落葉した葉のテクスチャー

気温が一気に下がり、色とりどりの紅葉が徐々に落ち始めて、冬の到来を改めて感じるようになった。人は健康が第一で、健康でさえいれば、動かすことのできる体、手、足、目、口…があれば、人はなんでもできるのだということを思う。体調だけは崩さないようにしたいですね。

今回も引き続き、思ったことを 3000字以内でサクッと書いていきます。

 

「安心」と「喜び」は別物である

最近思うこと。それは「安心」と「喜び」は別物であるということだ。極端に言うと、世間に従えば「安心」が手に入るが、「喜び」は手に入らない。周りに合わせていれば、怖いものなどなく、[赤信号、みんなで渡れば怖くないの原理]で、この世は多数派にさえついていれば、おそらく死にたくなる程の不安に駆られることはないのだと思う。別に多数派につくことが決して悪いことではないのだけれど、多数派につくことで、多数派についた人の大半が、自分で考えて行動することを放棄するようになったということが問題なのだと思う。何も考えなくてもそれなりに豊かな生活を送ることができる現代では、「安心」と「喜び」がごちゃ混ぜになっていて、それらがほぼほぼイコールの関係になりつつある。周りに合わせることによる「安心感」。それらに包まれることに「喜び」を覚えてしまうようになった現代では、人は「喜び」を追い求める活力、それ自体を忘れ去りつつある。

 

苦しみと安心の代償社会

「 ~しなければいけない。」と思った時点で、それは「喜び」を内包していない。例外もあるけれど、やりたいと思ったことに「喜び」は宿り、しなければいけないと思ったことに「苦しみ」が宿るのだと思う。現代には「苦しみに耐えたのだからその代償として安心(安定)をくれよ!」みたいな雰囲気が充満しているように感じる。このような雰囲気を漂わせている典型的な例が、「学校」や「仕事」であり、これらはどうしても「苦しみ」を先行させてしまう性質を持っている。[苦しみと安心の代償社会]では、いつまで経っても生きる喜びを追い求めることはできず、「安心」のために終わりの見えない「苦しみ」と闘いながら、ストレスフルな生活を送っていくことになる。

日本の死因ランキングには必ずと言っていいほど、「自殺」という項目が存在する。日本は先進国の中でも自殺大国であり、その自殺者数は年間約3万人。しかもその中の多くが若者であるという現状である。最近では電通での仕事を苦に、新入社員が自殺をしたことが世間を騒がせた。

自殺、うつ病、いじめ。それらの温床となるのが、多分、[苦しみと安心の代償社会]なのだと思う。このような社会では、実は「喜び」が外へ投げ出されてしまっているのだということを自覚しにくく、「(本当は外にあるはずの)生きる喜び」を失ってしまったのだという勘違いをしてしまう。その結果、自殺、うつ病が多発し、ひどい場合には他者を攻撃(いじめや犯罪を)するようになってしまう。

 他者を攻撃するようになったとき、他者を批判するようになったとき、それは自分の心が叫んでいるサインである。「俺に!!私に!!生きる喜びをくれ!!」と叫び、他者にそれを求めることほど、愚かなことはない。苦しみ、嫉妬、絶望。そういった感情は、人の心をコントロールし、他者(もしくは自分)を傷つける力を有していて、その感情に完全に支配されたとき、人の心はいとも簡単に崩壊する。

 姉のように、ただ「自分」であり続け、その「自分」の欲望に従って生きること、それが美しさなのだろうか。ならば私はその美しさを持つことは永遠に出来ない。私はきっと、姉になりたかったのだ。いつだって、姉を見てきた。ずっと見てきた。姉を蔑み、堀井早百合を傷つけることで、私はやっと「自分」を保つことが出来たのだ。姉たちの持つ「美しさ」に憧れ、決して手に入れられないものだと分かっていたからこそ、私は彼女たちを傷つけたかった。

~西加奈子『うつくしい人』~

 紅葉の秋

自分のやりたいこと(喜び)を知り、それを追い求めることは、自分の人生を圧倒的に豊かにする

そのような[苦しみと安心の代償社会]で、いかにして自分に正直に生きるか、自分のやりたいこと(喜び)を正確に知り、行動していくかで、人の人生は圧倒的に豊かになるのだと思う。

 僕が最近頻繁に引用する(させてもらっている)、西加奈子さんの小説『うつくしい人』の文庫版あとがきのページに、ともさかりえさん(女優)と西加奈子さんの対談が載っていたのでほんの少しだけ紹介します。

自分で不幸になれる人は、自分で幸福にもなれる

ともさか「私は、前半の、真っ暗なトンネルの中にいるみたいな感じも嫌いではなくて。トンネルの中が居心地いい時もあるじゃないですか。『今はぜんぜん、眩しいのいらない』みたいな時もある気がするんです。」

西「うんうん。」

西「自分で不幸になれるんやったら、自分でも幸せになれるんだ。トンネルが長い人とか、うぅーって悩む人ってやっぱり、パワーがある人やからね。」

ともさか「どん底を引っ張れる人は、タフですよね。」

西「その分、幸せをつかむ力もでかい!」

ともさか「結局、自業自得なんだなって思うんです。自分はダメだって思っちゃってるのも自分だし、ダメだダメだって連鎖させてるのも自分なんだなって。それは『うつくしい人』を読んでいて、気付かされたことなんですけどね。」

西「辛くなるのも、幸せになるのも、自分次第。なんか、元気になった(笑)。今日はありがとう!」

 

僕はこのお話を自分なり(?)に解釈していて、幸せ(喜び)には、苦しみというか後悔というか、必ずそういったものも一緒についてくるものなんだと思う。この「苦しみがついてくる」っていう感覚は大事で、あくまで先行しているのは「喜び」なのだ。だから、ある意味おまけとしてついてくる苦しみや後悔に悩む人(悩むことができる人)はタフでパワーがあって、そういう意味で、自分で不幸になれる人(喜びに伴う苦しみに耐えられる人)は、自分で幸福にもなれる(喜びを感じることができる)んだろうなと思った。

現代人が、「安心」と「喜び」は別物だという認識を持つとともに、[苦しみと安心の代償社会](苦しみに耐えるからその代償として安心をくれ!みたいな社会)ではなく、[喜びと苦しみの自由社会](喜びを追求していれば辛いこともあるよね!みたいな社会)を生きることができれば、人は自分の頭で考え、行動し、自分で自分の生き方を模索していくようになるのだと思う。

 

ではでは、おつぽん!