心に宇宙を感じよう。さすればおのずと道は開ける。

美瑛の木と星空

人間は退屈なのではないか。ということを最近思う。退屈だから働くし、退屈だから学校に行くし、退屈だから音楽を聴くし、退屈だから生きようとする。人生は死ぬまでの暇つぶしとはよく言ったもので、本当にそうなのではないだろうか。

しかし、いつからか人間は、その暇つぶし、たかが暇つぶしでさえも、悩み、苦しみながら生きる。

 

宇宙を感じることができれば、良い意味で、どうでもいい!と思える

今まで学校生活を送ってきた中で、自分を偽っている人がなんと多いことか、と思うことが頻繁にあった。僕はある程度、他人が自分に対して抱いている感情が、なんとなくわかる(ほどに他人に対して敏感だ)と自分で思っている。「あ、この人は僕に接するときに自分を偽っているな」とか、「この人は本当の笑顔をしていないな」とか、おそらく僕だけじゃなく、そういったものを感じ取った経験のある人は少なくないのではないだろうか。僕はそういったものに触れたとき、心臓がきゅっと締め付けられるような感覚を覚える。この感覚が気持ち悪くて、「自分を偽るくらいなら僕なんかに関わってくるなよ」と思ってしまう自分は、自己中心的、身勝手傲慢極まりなく、「僕の人間としての器はなんと小さいことか」という自己嫌悪の闇に陥ってしまうこともある。そしてそうなるのが嫌だから(自分が自己嫌悪に苛まれたくないから)、僕は正直、自分を偽っている人間には関わってきて欲しくない。お互いがお互いを探るような、お互いがお互いを傷つけ合わないような、そういう生ぬるい関係に僕はものすごく疲れるし、その人自身は嫌いではないのだけれど、その人と一緒にいるときの空気感と、そこに流れる時間に、僕は強烈な拒否反応を起こす。

とは言いつつも僕自身、自分を偽って生きてきた時期もあったものだから、そういう気持ちが物凄くわかるのだけれど、自分を偽ってしまう人は(自分の経験も踏まえて)、大袈裟に言うと、宇宙を感じることができていないのだと思う。かなり抽象的な表現になってしまうけれど、自分の生きている絶対的な世界は非常に狭く、息苦しいものである。そこに壮大な宇宙の無限性を感じることができれば、視界がパァーっと開けて、開放的な世界となる。地球も宇宙に漂う一つの惑星であり、その存在は極めて小さい。そして自分が、その小さな存在の中のさらなる小さな存在であることを自覚したとき、良い意味で、どうでもいい!と思えるようになる。それこそが宇宙を感じるという意味であり、心に宇宙を感じることができれば、それだけで人は無敵になるのだと思う。

 

人は自分で自分を縛っているような気がする。

人生には完全なる選択の自由が存在しているのに、その選択の自由を放棄して、人は決断(責任)から逃れようとする。人間は地球上で最も賢く、唯一「考える」動物であるにも関わらず、人間は考えることが嫌いなのかもしれない。正確に言うと、自分が考えることに伴う決断(責任)の苦しみを背負いたくないのである。人が自分で自分を縛っているというのは、まさに決断(責任)の苦しみに縛られているということで、その苦しみに縛られている限り、人は自分の意志で、自分の頭で考えて行動することはできず、永遠に他人の考え、周囲の反応に流されて行動していかなければならない。

「井の中の蛙、大海を知らず状態」よりも、「井の中の蛙、大海を知ってしまった状態」には、かなりの不安と恐怖が伴う。人が自分の意志で決断し行動することは、まさに大海を知ろうとする試みであり、だからこそ人は、決断(責任)の苦しみにとらわれつつも、あえてその鎖から解き放たれようとはせず、「井の中の蛙、大海を知らず状態」のままであろうとする。僕は、「大海を知ってしまった蛙」になりたい。たとえ押し潰されそうになるほどの不安に苦しむとしても、自分で自分を縛るような生き方はしたくないと思っている。

 

全ての悩みは周りに漂う空気感から生み出されている。

人は悩む生き物である。人は考える動物ゆえに、悩むという苦しみから逃れることはできない。しかし苦悩というものは、実は自分が自分で感じてしまっているだけであって、悩みそのものは周囲に漂う空気感なるものから生み出されているのではないのかということを最近思う。周りの目、世間の常識というものが(おそらく日本では頻繁に)人間の思考に介入し、時にはその思考を捻じ曲げることもある。「こうしなければならない。」「こうするのが普通だ。」といったものに、自分の思考は、自分の意志は明らかに拒絶反応を起こしているにも関わらず、その自分の意志を無視して周りの空気感に流されてしまう。自分の意志と周囲との空気感との違いに人は悩み、苦しむのである。

悩みを生み出しているのは周囲に漂う空気感であり、それを感じ取るのは自分なのである。

 

私三十二なんですけど、この年で仕事を辞めてしまって、あの、キャリアがあったわけではなかったし、給料もいい職場はなかったんですけど、お洒落だし、社内の人はそこそこ私を認めてくれていたし、実家がまあまあ金持ちなんで、仕送りもしてもらってるし、恥ずかしいんですけど、今回の旅行も親頼みなんです。三十二だから、年齢がどうとかじゃないんですけど、つまり私にはちゃんとした社会的な実力、というのですか?それがないんですけど、なのに会社を辞めてしまって、お金のことはいいとしても、なんていうか会社を辞めて、三十過ぎた女がごろごろ家に、実家ではないんですけど、結構広くて日当たりのいい、マンションなんですけど、そこにいるのも不安に思って。不安というのは、社会的に見て不安って意味で、だから旅行でも行こうと思って、雑誌をたくさん見たら、このホテルが目に留まって。私みたいな女がひとりで来ても、ああ一人旅が好きな人なんだな、と思ってもらえる程度で、あとはなんていうか、社会的にそこそこ地位のある女の人が有休でもとって遊びに来てるんだなと思ってもらえるかと思って。思ってもらえるって、誰にー、て言われると本当、誰に、て感じなんですけど、

とにかく、気になるんです。気になるの、人の目?自分が社会的にどういう位置にいるのか。どう思われているのか。自分のことを見ている自分の目が、何重にもありすぎて、自分が自分でいることがどういうことか、分からなくなるんです。分からないんです。

海。そう、ここ、海が青いでしょう、青すぎないというか、そのまま、海のままそこにある、でしょう。そのままそこにあり続ける、ただそのことが、私には出来ないんです。この海、のような人たちの真逆に自分がいて、あれやこれや人の目を気にしている、とても愚かで、本当に嫌なんです。でも、私はずっとそうしてきたから。ああ、私何言ってるんでしょうかね。

~西加奈子『うつくしい人』~

 

流れる星空

心に宇宙を感じよう。さすればおのずと道は開ける。

心に宇宙を感じよう。ここで言う宇宙とはつまり、「喜び」であり、その喜びが大きければ大きいほど、人はおのずとその喜びを追い求めて、自らの意志で、力で、己の人生を切り開こうとする。人間とはそういうものだと、僕は信じている。人が心に宇宙を感じることができないときというのは、大抵、ブラックホールが存在していて、そのブラックホールは、自分の意志や力を根こそぎ奪う。そのブラックホールはおそらく、周囲の反応であったり、世間の常識であったり、自分が無意識の中で自然発生的に存在させてしまっている心の闇である。しかし宇宙(喜び)やブラックホール(世間の目)を創造しているのは結局、神(自分)であり、全ての世界は神(自分)によって創られている。この世界は、自分の目を通して映し出され、この世界に対して何を思うかも全て自分の思考が決定する。大袈裟に言えば、人間は生まれた瞬間から何をしてもいい。「これはしてはいけない。」「これをしなければならない。」といったものは実は始めから存在していなくて、そういったものは全て自分が無意識に創り出してしまった幻想なのである。

壮大な景色を見て「美しい」と思うのも、つまらない時間を過ごして「つまらない」と思うのも、完全に人間の自由だ。でも僕は、つまらない時間を過ごすよりも、壮大な景色を見ていたいし、つまらないと思うよりも美しいと思いたい。結局人間はどこまでも退屈なのだから、退屈な時間は、自分で決断した自分の時間を自分で感じていきたいと思っている。退屈な人生の中には、美しいと思う時間もつまらないと思う時間も始めから用意されていて、どの時間を過ごそうとするかは完全に人間の自由なのである。

過去記事: 人生には完全なる選択の自由が存在する。

 

 ではでは、おつぽん!