喜びを感じているときの人間は笑顔に溢れる。

僕はある日、公園で幼い子供(おそらく3歳くらいだったと思われる)とおばあちゃんが一緒に遊んでいるのを見た。特に目的もなく公園のベンチでボーっと座っていた僕は、その光景に思わずニヤニヤしてしまった。周囲の人間から見れば、かなり気持ち悪いことこの上ないなのだが、どうしても僕はニヤニヤが止まらない。幼い子供とそのおばあちゃんは最高に笑顔だった。

 

親が子に求めるものと、子が親に示したいものは同じである。

家を出た僕は、両親のことを思う。家を出る(その際に大学もやめる)ということを友人に伝えた際にも、友人は皆口を揃えて「親が悲しむよ」的なことを言った。

親が子に求めるもの、子が親に示したいものは、「楽しそうに生きること」に集約すると思う。それは生きる喜びを追求する人生の過程(もしくはその先)に存在するもので、「喜びを追い求めること」と「楽しそうに生きること」はイコールの関係に近い。親は子に楽しそうに生きることを求め、子は親に楽しそうに生きている自分の姿を見せたいものだと(少なくとも僕は)思っている。それこそが世間一般に言われる親孝行の本質的な部分でもあって、自分の人生を楽しそうに生きない(喜びを追い求めない)ことほどの親不幸はない。僕が大学を辞めるという決断を下したのも、大学に四年間も通い続けること自体に(僕の場合の)生きる「喜び」がないと思ったからで、大袈裟に言うと、親孝行が出来ないと思ったからである。誤解してほしくないのだが、親孝行がしたいから僕が生きる「喜び」を追い求めるのではない。僕が生きる「喜び」を追い求めた結果(おまけ、というか必然的に)親孝行へと繋がるということが真の「親孝行のかたち」だと思う。親孝行をすること自体が先行すれば、忽ち人生は、【他人軸に照準が合わされた(自分軸のない)】空虚なものと成り果ててしまう。

 

生活のために生きているのではない。お金のために生きているのではない。

 大学の事務員さんと両親と僕で面談が行われた際に、僕は物凄く現実的なことを言われて何も言うことができなかった。「お金がないと生活できない」「この先10年後20年後の生活はどうするのか」などなど、これから起こりうるあらゆる事態への対応策を求められ、僕はもう、死にたくなった。将来のことを話されると僕は、何も言うことができなくなる。僕が言いたいことは、生きるだけで良い。ということだけだ。

「君の考え、やりたいことは物凄く理解できるし尊敬するけれども、とりあえず今は大学に通って自分の実力を高めるべきだと思う。」的なことをアドバイスされて、僕は、まさにその通りでもあるなぁと感じた。事務員さんの言っていることは、正しいかどうかはわからないけれども、間違いでもないんだろうなぁとも思った。しかし、僕は正しいとか間違ってるとかはどうでもいいと思っていて、事務員さんの考えは事務員さんの考えで、僕は僕の考えで、もう、ただそれだけのことである。事務員さんは将来のことや生活していくことを考えていて、僕は生きることだけを考えている。生きることと生活することは全く意味が異なる。この考え方の距離を縮めることはほぼ不可能で、何よりも大事なことは、自分が持っている絶対的な考え(自分軸)に従って人生を歩むことだと思う。

 

生きている実感を求めて生きる

お金とかどうでもいい。たくさん持ってても不安なものは不安なわけで、多分、100万円貯めても1000万円貯めても1億円貯めても、お金による不安は消えないのだと思う。生活とかどうでもいい。生きることと生活することは全く別物だと思う。これは僕の感覚的な考えになるけれど、生きることは「喜び」を内包していて、生活することは「我慢」を内包している。(厳密に言うと、生活することにも確かな「喜び」は存在するんだけれどもどうしても「我慢」が先行してしまっている気がする)

お金よりも生活よりも僕は、(お金がなくとも安定した生活がなくとも)紅葉が綺麗だなぁと感じられるみたいな、「生きている実感」みたいな、そういうものを感じられることの方が500億倍大切だと思っている。極端な話僕は、自分を不安にさせるものはどうでもいいと思っていて、自分を幸せにしてくれるものをとことん愛していきたいと思っている。

僕は、生きている実感さえあればそれで良いのだと思う。自分の足で地球を感じること(歩くこと)が楽しい。自然を感じることができたら嬉しい。人と助け合うことができれば、人を愛することができれば、僕はそれでもう満足だ。生活することやお金を稼ぐことはもうどうでもいい。感覚的で曖昧故に理解されないこともあるけれど、 僕は、僕自身の体全体を通して、僕にとっての喜びをここに綴っていきたいと思っている。

 

~余談~

喜びと苦しみは表裏一体で、喜びの中には苦しみがあり、苦しみの中にも喜びがある。一人の時間を好む僕は、一人になればなるほど「喜び」の純度みたいなものは高まるんだけど、それと同時に孤独ゆえの苦しみみたいなものも深まっていって、無性に人に会いたくて会いたくて仕方ないことがある。このことから僕は、喜びの中にも苦しみは何処かにあって、おそらく、苦しみの中にも喜びはあるんだろうなぁということを感覚的に掴んだ。そして僕は、一人の時間を好むのと同じくらい「人」が好きなんだなということに気づくことができた。人を愛することには全人類に共通する「喜び」がある。人を愛することは、人が生きるうえで最も重要なテーマでもあって、僕はこれからも、人を愛し続けながら生きていきたいなと思うようになった。

 

喜びを感じているときの人間は笑顔に溢れる

物凄く壮大な景色を見たとき、大自然に囲まれながらスーッと深呼吸をするとき、何気ない日常の中で小さな幸せを発見したとき、心から愛している人と一緒にいるとき、人は自ずと笑顔に溢れている。僕はまさにこういう瞬間を求めていて、僕が多用する「喜び」という抽象的な言葉は、「笑顔」という具体的な言葉でも言い換えることができる。喜びを感じることによって生まれた笑顔は、自分を幸せにするだけにとどまらず、(冒頭で述べた公園での出来事のように)周りの人間を幸せにさせることもある。「喜び」のエネルギーによって「笑顔」が生まれる。そのエネルギーが周囲に伝播していけば自ずと、人生は、世界はハッピーになるのだと思う。

 

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ユースホステル部の活動として、与論島でサイクリングをしているときの一枚です。「もしかして周りに生えている草木を揺らしているのは僕たちなんじゃないのか」という中二病的な錯覚を覚えるほどに、僕たちは与論島の平坦な道を自転車で爆走していました。この写真を撮っているときの僕の笑顔は最高だった!と、自分で胸を張って言うことができます。

 

ではでは、おつぽん!

 

宿のお願い

12月から僕は西日本へと移動します。本当はまだ足を運んだことのない東日本に行きたいのですが、それでも西日本へと向かう理由は、東は寒いからという、ただそれだけに尽きます。西日本在住の方で僕を泊めてくれるという神様のような方がいらっしゃればお気軽にご連絡ください。東日本在住の方でもいつでもご連絡していただければ、おそらく来年の夏までには向かうと思われます。交通費に関してはヒッチハイクをするので必要ありません。宿と食事を分けていただければ非常に幸いです。ご連絡はこの記事のコメント欄、Twitter、またはFacebookにてお願い致します。