【大人と子供の違い】大人たちはもっと「喜び」を追い求めるエネルギーを放出せよ

つい最近家を出た僕は、自分が考えていることに対して向き合う時間が増えた。考えれば考えるほど、人はどこまでも考えることができるのだけれど、それをどこかに発散(アウトプット)しなければ忽ち頭の中はパンクして収拾がつかなくなるので、ここにいろいろ書いておこうと思う。

 

 

人間は生まれながらにして「喜び」を追い求める全エネルギーを持ち合わせている。

人は社会的に(今の日本社会のシステムの中で)大人になるに従って、子供の頃に持っていた「何か」を失っている気がしている。これは僕自身実感していることで、徐々に年齢を重ねていくに従って、ある程度周囲の環境に適応してくると、子供の頃は普通にできていたことが出来なくなったと思う。いつからか社会の常識というフィルターを通して世の中を見るようになった僕は、「喜びに向かって突っ走ること」であったり、「嫌なことに対して全力で拒否すること」であったり、子供の頃は平然とできていたことが出来ないようになっていた。

人間は生まれながらにして、「喜び」を追い求める全エネルギーを持ち合わせている。公園で走り回っている子供を見ると、一目瞭然だろう。子供たちはただ単純に「喜び」を得るために突っ走っている。子供の透き通った瞳を見ると、如実にそれを感じることができる。僕は今までに濁った目をして遊んでいる子供を見たことがない。

大人の常識というフィルターを通して世の中をみることが、本当に大人になるということなのだろうか。みんな最初は「喜び」を追い求めて生きていた。子供の頃を思い出せば、きっとそうだと思う。遊びたいから遊び、嫌だと思ったから嫌だと言って駄々をこねる。そこに社会の常識とか、周りの反応とかは関係ない。だからと言って何もかも子供の頃のように全て自分の思い通りにすればいいわけではないけれど、ここで僕が言いたいことは、「今の大人」は我慢し過ぎているということであり、社会的に大人という立場になっても、社会の常識というフィルターは必要ないのではないかということだ。

 

~余談~

話がかなり逸れてしまうけれども、僕は先日、ユースホステル部を辞めた。理由は単純で、大学を辞めるならば部活もやめなければならないというものだ。

目の前にある選択肢を捨てる際に伴う決断の重みは、捨てた選択肢のその先にある選択肢も捨てることになるということを理解したときに感じるもので、ただ目の前にある選択肢だけを捨てることは、案外簡単なことなのかもしれない。僕が大学に行くという選択肢を捨てれば、必然的にユースホステル部員であり続けるという選択肢も捨てなければならない。僕はユースホステル部を愛していたので、ユースホステル部を辞めるという選択肢をとらなければならないと理解したとき、絶望的な苦しみを味わった。

 

人間関係や肩書きなんかに惑わされない最強の自分軸を持ちたい

どうにかしたいけどどうにもならないことに歯痒さを感じつつも、しかし僕はあることに気付いた。ユースホステル部を辞めればユースホステル部員という肩書きは消えるが、ユースホステル部員として生きた時間と他のユースホステル部員との繋がりは消えない。人間は、人との繋がりまでを断つことはできないのである。この気付きは、僕がユースホステル部を辞めるという決断に迫られた際に、確かに大きな希望となった。

 この世には表面的なものばかりを纏った人間、そしてそれらに悩まされている人間で溢れている。人間関係や肩書きというのもその一つで、本当はもっとシンプルに考えて良いのだと思う。自分軸とは自分の意志(自分はこうありたいと思う自分の分身のようなもの)のことで、真っ直ぐにそびえ立つ自分軸を持った人間は、人間関係に囚われないし、肩書きにも惑わされないと思っている。人間関係や肩書きなどの、表面的なものの根底にある確かな繋がりのようなものを感じることが出来れば、その人は最強なんだろうなと思うようになった。

 

大人だからこそ自分軸を持つことができる

 人の心の中には天使と悪魔が何処かに棲みついている。心の中に棲む天使と悪魔は、人が何かを決断する上では厄介な存在で、天使は「君はこうすれば良いのだよ。」と優しく囁き、悪魔は「いやいや、お前はこうするべきなんだよ!」と厳しい口調で決断を促す。しかし、僕は天使が必ずしも善で、悪魔が必ずしも悪だとは思っていなくて、どちらかが正しくてどちらかが間違ってるとかは存在しないと思っている。僕が決断をする上で最も大切にしているのは「自分」であり、心の中に君臨する絶対神は「自分」であると考えている。そもそも天使とか悪魔とかいうのは、自分の中で不安や迷いが生じたときに存在するもので、絶対神「自分」が心の中に存在する(自分軸のある)人間には、天使や悪魔は棲みつかない。

大人だからこそ自分軸を持つことができて、子供はその幼さ故にまだ自分軸というものを構築することができない。

 僕の可笑しな言葉でまとめてみると、子供と大人の違いは、心の中に絶対神「自分」が存在しているかどうかである。しかし、世間一般的な子供と大人の違いは、周りに適応できるように(この世の常識に通用するように)設定されたフィルターを持っているかどうかであり、そのような基準は、人が生まれながらにして持っている、生きるうえでの原動力となるエネルギー(喜びを追い求めようとする力)を剥奪する。

 

全然うまくまとめることができないけれど、結局この記事全体として言いたいことは、今の大人は、生きる「喜び」を(無意識に)追い求めていた子供の頃の純粋さを、社会の常識というフィルターで意図的に消し去ろう(我慢しよう)としていて、自分軸(自分の意志)を無視したまま社会に適応することだけに躍起になっているように感じる。本質的に生まれながらにして持ち合わせているエネルギー量は大人も子供も関係なく同じであり、大人と子供の違いを述べるならば、子供は喜びを(無意識に)追い求めるエネルギーに満ち溢れ、大人は社会の常識というフィルターを通してそのエネルギーを自らの内面に閉じ込めようとしていることだと思う。僕は、そのような(喜びを追い求めるエネルギーを押し殺した)大人にだけは絶対になりたくないと思っていて、幼い子供たちにはそのような悲しい大人の背中を見せたくないとも思っている。

 

 雄大な自然の景色は、僕に莫大なエネルギー与えてくれる。

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「喜び」を追い求めるエネルギーを、僕は全開にして放出しまくりたい。

 

ではでは、おつぽん!