生きること自体に意味はない。人は「喜び」のために生き、人の数だけ「喜び」がある。

人はなぜ生きるのか。

最も1日を振り返る時間である夜中に、僕はこういうことについて深く考えるときがある。誰でもこの問いについて考えた経験はあるはずなのだが、真剣に深く考えた人はあまりいないだろう。現代人はとにかく忙しい。日常生活を送っていくためには会社に勤めてお金を稼がなくてはならないし、将来就職するためには学校に行って勉強しなければならない。一日三食の食事に加え、トイレ、お風呂の時間も欠かせない。日々の日常生活を送る中で、テレビやスマホ、パソコン、新聞、雑誌などからは様々な情報が頭の中に流れ込み、現代人は既にその情報量に完全にオーバーヒートしてしまっていて、「人はなぜ生きるのか」という問いについて深く考える時間などないに等しい。「人はなぜ生きるのか」という問いについて考えること自体に意味があるとも思えないし、その問いの答えが出たところでどうということもない。

それでも僕は、たまにというか、最近では頻繁にこういうことを考えている。そしてようやく僕なりの答えが出たので、ここに書いて整理しておこうと思う。

 

 

人が生きるのは「喜び」を感じるためである。

はっきり言いきってしまうと、人間が生きている意味などない。誤解してほしくないのだが、この「生きている意味」に全く深い意味はない。人間が存在する意味もなければ価値もないのだというネガティブな印象を帯びた言葉、として捉えてほしくはない。「生きている意味はない」というのはその言葉通りの意味で、ただ単純に、人間が生きている意味はないということである。人間は地球上に必ずしも存在しなければいけない生物でもないし、この地球は、人間などいなくても宇宙の自然法則に従って自転・公転を繰り返し、またその自然法則に従って、いずれは滅んでいくのだろう。人間が誕生してから現代の人間に進化するまでに、人間はいったい何を考え、何のために生きてきたのだろうか。この問いについて、夜中に深く考え込んでいると僕は、ある答えにたどり着いた。

それが「喜び」なのではないだろうか。

全ての人間が生きようとしているのは「喜び」があるからで、「喜び」がなければ人は生きていこうとしないのだろうなと思った。しかし、この「喜び」とは厄介なもので、生きる上での「喜び」を全ての人間が常日頃から意識し、実感することはほとんどない。この時代を生きる現代人には特に難しいことで、生きるうえでの「喜び」とは?と聞かれて即座にそれを答えることはできないだろう。とはいえ人間が生きているということは、生きるうえでの「喜び」が存在しているということである。それが単に言語化できないだけかもしれないし、常日頃から意識していないために自分でも気づいていないということもあり得る。その「喜び」とは人それぞれで違うものであり、人の数だけ喜びがある。

非常にシンプルな例でわかりやすく言うならば、野球選手を想像してみてほしい。彼らの生きる「喜び」は野球をすることにある。野球が好きだからこそ厳しい練習に耐え、血の滲むようなトレーニングに耐えることができるのである。野球をすることに喜びを感じることができなければ、そもそも野球選手にはなれなかったであろうし、彼らは他の喜びを探しに別の人生を歩んでいただろう。野球選手が野球をするのは、野球をすることに生きる「喜び」があるからである。そういう意味で、「喜び」とは生きるのに必要な原動力という言葉で言い換えることもできる。

 

人の数だけ人の喜びは存在して、それは自然を感じることであったり、美味しいご飯を食べることであったり、ただボーっと空を眺めることであったり、この世にありふれた、ごく平凡な日常の中の習慣に隠されていることだってある。だからこそ「喜び」は常日頃から意識されなくなり、現代人はそれを感じることができなくなっている。

 

 

人は過去を生きるわけでもなく、未来のために生きるわけでもなく、今を生きている。

現代人が「喜び」を感じにくくなっているのは、「今」を生きていないからだと思う。厳密に言うと過去も未来も存在せず、あるのは「今」だけである。過去とか未来とかを考えているのは「今」であって、その「今」は過去のものとなり、そして未来が「今」となる。

「今」を生きるとは、この瞬間の「喜び」を感じ取ることであり、人が今生きているのは、過去のためでもなく未来のためでもなく、「喜び」を感じる(今を生きる)ためである。しかし、現代の人たちは「今」を生きようとしない。僕自身が大学生という立場にいるので、ここでは大学生の例を挙げる。大学生の9割以上が「今」を生きていないと言っても過言ではないだろう。この世の全大学生がそうであるとは言えないが、少なくとも日本の大学生のほとんどがみんな「就職のため」という未来のためであったり、「みんな通ってるからなんとなく」という自分の意志を無視した混乱状態に陥っていたり(僕自身これにあてはまる)して、肝心な「今」を生きることができていない。ここに僕はものすごく危機を感じている。

 

~余談~

大学という場所はそもそも勉強するところである。「自分が興味を持っている科目の勉強をしたい。」「将来自分がやりたい仕事に就くために大学でこの勉強をやっておくべきだ。」という人のために存在する場所である。しかし、今の大学にはそのようなことを考えている大学生はほとんど存在しない。と僕は思う。誤解してほしくないので何度も言うが、全ての大学生がそうであるとは言っていない。将来自分のやりたいことのために大学に行って勉強する人もいれば、勉強すること自体に生きる「喜び」を感じている人だっているはずである。ところが実際問題、そのような大学生は極々稀少な存在で、少し乱暴な言葉で表せば、本来勉強したいと思っている大学生が集まる神聖な場所としての大学が、そうでない無目的な大学生で溢れかえる汚れた場所となり果ててしまっているのである。

大学の講義に出ればその有様は一目瞭然である。教室の最前列で教授の話を受けている者たちは比較的授業に積極的に参加しているが、最後列で受けている者たちは授業に消極的な大学生が群がり、トランプをやっていたり、居眠りをしていたり、携帯を触っていたり、所謂無法地帯と呼ばれる空間なのだ。ここで僕が言いたいことは、最後列で授業を受けている者たちも、最前列で受けている者たちのように積極的に授業に参加するべきだという陳腐で無責任な主張を唱えることではない。(というのも僕自身無目的に大学に通っているからだ。)本来勉強したい学生が集まる場所としての大学が、「将来の就職のため」「なんとなくみんな大学に入っているから俺(私)も」のように、「今」を生きることができていない学生で溢れかえっているということだ。

 

この記事で僕が言いたいことをまとめると、人は「喜び」のために生きているということである。しかし、その「喜び」というものは現代人にとって非常に感じ取りにくいものとなっており、それを実感するためには「今」を生きること(生きているこの瞬間の喜びを感じること)が必要であって、現代人(特に大学生)はその方向性を見失っているように思う。だからとりあえずみんなの足跡が少しでも多い道をたどって進み、そこにあたかも喜びがあるかのように自分自身を錯覚させて、自分が心の底から感じ取れるはずの喜び探し(僕はこれを人生だと思っている)を放棄してしまっている。

 

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生きること自体に意味はない。人は「喜び」のために生き、人の数だけ「喜び」がある。